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名古屋高等裁判所 昭和32年(行ナ)2号 判決 1963年5月27日

原告 今村弥六 外二名

訴訟代理人 杉浦酉太郎

被告 三重県選挙管理委員会右委員長 吉住慶之助

指定代理人 早崎三郎 外三名

主文

原告等の請求を棄却する。

訴訟費用は原告等の負担とする。

事実

(申立)

原告等訴訟代理人は「昭和三二年五月五日執行の鈴鹿市小岐須町の地域を鈴鹿郡鈴峰村に編入する市村の境界変更を定める投票の効力に関する訴願について、被告委員会が昭和三二年八月五日付でなした裁決はこれを取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告は主文同旨の判決を求めた。

(主張)

当事者の主張は第一、請求原因、第二、答弁、第三、再答弁、第四、再々答弁及び第五、これに対する主張の順序に記載する。

第一、原告等訴訟代理人は請求原因として次のとおり述べた。

一、原告今村弥六は三重県鈴鹿郡鈴峰村大字小岐須の住民で右小岐須区の区長、原告神野亨は右鈴峰村の住民で右小岐須区内登里組組頭、原告柴田弥七は右鈴峰村の住民で右小岐須区内南条組組頭である。

二、鈴峰村大字小岐須区は元鈴鹿郡椿村大字小岐須と称し椿村に属していたが、昭和二十八年九月一日施行の市町村合併促進法の定むる所により、迂余曲折の末、昭和三十一年九月三十日右椿村は同郡久間田村と合併して新たに三鈴村となつたが、其後間もなく昭和三十二年三月十四日右三鈴村は三重県鈴鹿市と合併したが、予てより右三鈴村への合併更には鈴鹿市への合併に付旧椿村住民の間に非常なる反対があり、特に旧椿村大字山本、大字小岐須、大字小社の三地区に付ては鈴鹿市に合併編入後県新市町村建設促進審議会に於ける町村合併調整委員の調定により昭和三十二年五月五日右三地区に於ける住民投票が執行せられ、小岐須地区に於ては投票の結果有権者総数三七八人投票総数三七二票内賛成二五八票反対一一三票となり法定比率により計算して反対派は十一票の差で敗れ、右小岐須地区は鈴鹿市より離れ鈴峰村に編入せられることになつたのである。

右境界変更に関する投票の効力に関し、訴外高野謙次郎は昭和三十二年五月十日鈴鹿市選挙管理委員会に対し異議の申立をなしたが、右申立は同年五月三十一日棄却せられたので、更に之を不服として同訴外人は同年六月 日三重県選挙管理委員会に対し訴願を提起し、右訴願に付被告三重県選挙管理委員会は「昭和三十二年五月三十一日付鈴鹿市選挙管理委員会のなした鈴鹿市小岐須町を鈴鹿郡鈴峰村に編入する市村の境界変更を定める投票の効力に関する決定は之を取消す。

昭和三十二年五月五日執行の鈴鹿市小岐須町の地域を鈴鹿郡鈴峰村に編入する市村の境界を定める投票はこれを無効とする」旨の裁決をなし、右裁決は同年八月十五日三重県公報号外により告示せられた。

而して右裁決の理由は三重県公報号外選挙告示第十三号掲載の裁決書の通りである。

三、併し乍ら右裁決は以下詳述する如く明かに事実誤認の違法があるから、之が取消を求めるため本訴請求に及んだ次第である。

四、本論に入るに先立ち小岐須地区に於て住民投票が行われるに至つた経緯に付簡単に記述する。

昭和二十八年九月一日町村合併促進法の施行により、三重県北部ブロツクの合併に付、三重県町村合併促進審議会に於ては同年十二月県の策定案として鈴鹿郡椿村、庄内村、深伊沢村、久間田村の四ケ村合併案を公表したので、之に依り各関係村に於ても夫々合併促進協議会を設置し数十回の委員会を開催して合併に付協議を重ねたが、衆議院議員選挙、三重県会議員選挙の違反事件等相次ぐ久間田村の村内事情の為遷延を重ね約三ケ年の長きに亘り紛糾を続けて来たのである。

この間旧椿村に於ては、当時の村長丹羽正利、同村議会議長高野謙治郎等は相諮り独断専行を以つて多数村民の意志と相反する一方的合併案を議決し之を村民に押付けて来たのである。

即ち昭和三十年十一月二十四日には前記の如き県策定案にも拘らず四日市市への合併議決の申入れをなしたが、四日市市より拒絶せらるるや、次いで県策定案の四ケ村の外三重郡水沢村を含む五ケ村の合併案を打出し、之が審議をめぐつて水沢村では多数村会議員の辞職問題に迄発展する混乱を招来せしめて失敗し、更に同三十一年九月三十日には組合立鈴鹿中学を中心とする深伊沢村庄内村との合併を予て念願する村民の意向を蹂躪して三重県北部四ケ村(椿村深伊沢村庄内村久間田村を指す)の内最も関係の薄い久間田村との二ケ村合併を強行したのである。この合併は県の策定案である四ケ村合併への一段階で、先ず椿村久間田村の二ケ村庄内村深伊沢村の二ケ村を各合併せしめ、然る後合併した二村を更に合併せしめて四ケ村の大同併合を目標とする条件付の段階合併であつたが、裏面に於ては四日市市への合併を目途とする久間田村の分裂により椿村を三分裂の余儀なきに至らしめた政治的の策動を秘めたものであつた。

右の椿村久間田村の合併により三鈴村の誕生を見るや(庄内村深伊沢村は同時に合併して鈴峰村となる)、鈴峰村との大同団結的合併の条件を没却し、村議長高野謙治郎は村長丹羽正利と謀議の上、三鈴村新村会議員選挙日たる昭和三十二年一月廿七日の改選直前たる昭和三十二年一月十三日一般村民の熱望意向を全く無視して一方的に鈴鹿市へ合併する議決をなすに至つた。かくて旧久間田村の鹿間、南小松地区を中心とする四日市市への合併派旧椿村の小岐須、小社、山本地区を中心とする鈴峰村への合併派が合同して三鈴村の鈴鹿市への合併議決取消しのため、更には四日市市、鈴峰村への分村合併実現の為、猛運動を展開したのである。

之より先、旧椿村に於ては村当局の合併問題に対する無定見無軌道振りに対し村内各方面より鋭い批判反対の声が上り特に小岐須区に於ては再三、再四区総会を開き区の総意として深伊沢村庄内村椿村の三ケ村合併実現を決議した。

昭和三十一年九月一日、二日の両日に亘り開かれた小岐須区総会では椿、久保田の二ケ村合併を謀議する丹羽村長高野謙治郎議長等の方針に絶対反対の意向を表明し、深伊沢庄内両村との合併を分村してでも実現することを満場一致決定したが、此の方針に反対したのは高野謙治郎只一人で関係方面へ陳情する署名簿にも同人のみが署名しなかつたのである。

この決議を実現するために、昭和三十一年九月三十日には小岐須区内の登里、南条、下里、釜垣内、北条の各組から組長を推進委員に任命、更に実行委員十名を選任して区長の下に方針を統一して関係方面への陳情請願を続け、区総会の決議により区費を以て合併対策費を賄い正々堂々公明なる運動を展開したのである。

昭和三十二年一月二十七日合併後初の三鈴村新村会議員の改選が行われたが、従来の村議会や村当局の一方的独断的な鈴鹿市への合併議決に憤激した村民は鈴鹿市合併反対の意思表示を行い、旧椿村では当選村議員十名の内七名が鈴峰村への合併を公約したもので、特に小岐須、小社、山本の三地区より選出せられた六名の村会議員の内鈴鹿市への合併賛成議員は高野謙治郎只一人で、如何に村民が鈴峰村への合併を熱望していたかが窺えるのである。

併し乍ら改選後の村議会に於ては鈴鹿市、四日市市、鈴峰村へそれぞれ合併を望む地区は地区住民の意思に従い其の合併希望実現を目途とする方針を確立し、定員二十二名の村会議員の内十四名の有志議員が右方針を確認し県当局を始め関係各方面に陳情したが、鈴鹿市への合併を強行せんとする丹羽村長は新村会議員改選後三ケ月の長き期間に亘つて強硬なる議会招集の要求にも拘らず新議会の招集をなさず村政上稀に見る大混乱を続けて来た。

昭和三十二年三月十四日三鈴村議会は遂に三鈴村を廃して四日市市と鈴鹿市に編入することを議決したが、この議決に当つては小岐須、小社、山本の三地区は鈴鹿市への編入後、県新市町村建設促進審議会に於ける町村合併調整委員の調定によつて其の結果をつけることを確認され、昭和三十二年五月五日右地区に於ける住民投票が執行されるに至つたものである。

尚小岐須区に於ては合併問題に付昭和三十一年八月二十五日午前八時三十分より区集会所に於て区総会を開き記名投票により区の総意を決定した(投票済用紙保存)。

投票総数八十八票

1 椿、深伊沢、庄内の三ケ村合併希望 五十八票

2 椿、深伊沢、庄内、久間田の四ケ村合併希望 二十七票

3 椿、深伊沢、庄内、久間田、水沢の五ケ村合併希望 二票

4 椿、深伊沢、久間田の三ケ村合併希望 一票

以上の如き結果判明し予てより区に於て確認せられていた三ケ村合併の実現に区の総力を挙げて邁進することとなり、更に同年九月一日、二日の両日の区総会に於てこの区の総意が再確認され、この区の総意に反対する者は只一人訴外高野謙治郎であつたことは先に述べた通りである。

五、被告委員会は裁決の理由中「訴願本人及び高野忠一、若林春一、高野丹治の各供述、早川峰子外七名の陳述書並びに当委員会が行つた全投票の調査の結果を綜合すれば賛成派の有志をもつて合併実行委員会なるものを組織していたが右投票終了迄の過程において登里組及び南条組において概ね訴願要旨第一第二項記載の如き手段により、その他の組においては概ね訴願要旨第三項記載の如き方法で一般投票人の投票の自由が著しく侵害せられた事実が推認することができる」として其の根拠を投票調査の結果の数字に置いているが、訴願要旨第一、第二、第三項記載の如き事実は全く存しない。右は明かに事実の誤認である。即ち、

(一) 訴願要旨第一項記載の事実とは「鈴鹿市小岐須町の内登里組(戸数二十一戸、当時の組長神野亨)において本件投票の行われる三日以前の五月二日夜組員全員を集合せしめ同月五日の投票に際し鈴鹿郡鈴峰村に編入することについて『反対』の投票をなした者は向後十ケ年組八分とし、その間の組の財産(時価数百万円に相当する山林立木、一戸当り約二十万円位)の分与をしないとの制裁規約を作成、組内の投票人全部に署名押印せしめ且つ投票には全員『サんせい』なる片仮名と平仮名混合の特殊な字型を以て記載するよう指示すると共に選挙立会人(開票立会人)がいわゆる賛成派の組員小岐須了であることを奇貨とし開票の際同人が詳細に右字型による投票数を調査することになつているから万一違反者が出た場合には飽くまで詮議の上前述の罰則を適用する旨申渡して前記の投票を強要した。その為鈴鹿市に残留を希望するいわゆる反対派の人々も涙をのんで『サんせい』と投票した」との事実であるが、かかる事実は全く無根の事実である。

成程登里組(戸数二十五戸、投票人七十二名、当時の組長神野亨)において五月二日夜集会所に組員が集合したことはあるが、集合した者は「組員全員」でもなければ又「投票人全部」でもない。又集合の理由も裁決書記載の如き投票の強要、字型の指示でもない。予てより登里組においては、区の方針である鈴峰村との合併については誰一人異議を申出る者もなく、区の方針は再三再四区の総会に於て確認せられていたが、只一人区の方針に反対する村会議長高野謙治郎の親戚の者が陳情書等に署名押印するに当り区の陳情書と之に反する高野派の陳情書の双方に署名押印することが見受けられ、昭和三十一年九月中当時の区長柴田文四郎始め区の役員がかかる区の方針に反する裏切的行動を憂いて総辞職したことがあり(この不信行為をなした者は訴外早川峰子夫妻であつた)、以後組内一同反省して平静であつた処、昭和三十二年四月三十日夜反対派の高野丹治が登里組員水谷己好が同人方を訪れ金五百円を手交し「今度の住民投票に対して鈴鹿市へ投票するよう」依頼して立去つたことがあり、右水谷己好よりその由組へ報告があり右五百円を如何にすべきやの問合せがあつた。更に又時を同じうして組員酒井文造より予て同人の稼働先の林道工事鍛冶場附近で四月末日頃反対派の高野忠一より金五百円を手渡され「これで一杯呑んで呉れ、そうして住民投票には鈴鹿市へ入れてくれ」と依頼されたが、同人はその場で之を峻拒したが、その後投票を強要されることを怖れて林道工事に出ることを中止しているとの報告があつたので、登里組においては予て反対派(鈴鹿市派)が五十票買収せば今回の住民投票は必ず勝つと放言しているとの風説を耳にしていた折柄、恰もこの事実を裏書するが如き事態が発生した為、この対策を講ずる為組集会所において組の集会を開き、組員は互に戒め合つて買収に応じないよう組内から犯罪者を出さぬ様申合せをなしたもので、其の際鈴鹿市派の卑劣なる買収戦術に対し元より組員を守り且は組員の同志的結合を一層緊密にする為自発的に左の如き申合せの書面を作成し、居合せた訴外永井甫以下二十数名が進んで之に署名押印した。その文面は左の通りである。

五月五日の住民投票に際して全員左の事項を決議す。

一、鈴鹿市側よりの金銭物品を受取つた場合

一、尚其上鈴鹿市への合併に投票した場合

今後組の分配金を一切せず

五月二日夜 決定す 登里組

以上が五月二日の夜行われた全てで夫以外に何等他に決議され指示され又申合せをしたことはないのである。

向後十ケ年間組八分にするというが如き申合乃至制裁規約を作成した事実はない。

又組の財産にしても山林立木一戸当り約二十万円位とあるも、この財産は恰もその当時売却処分して一戸当二十万円位の分与分を分配しないとの申合せの如き曖昧なる記載となつているが、然らずして組から区に支出する各組員の毎年の区費その他組の経費に充当する性質のもので、各人に分与するのはせいぜい日当程度のものである。

右申合せは只単に鈴鹿市派の卑劣なる買収戦術に対する憤激の雰囲気より生じた一時的の余憤であり組員を買収より防ぐため採られたもので、何等組員全員を拘束するものではない。このことは組内の投票人全部に署名押印せしめたとあるも投票人七十三名中之に署名押印した者は僅かその三分の一位の二十数人であることよりも明かであり、又それは飽く迄も自発的な申合せであつて強要したるが如き事実は毫も存しない。

尚組の分配金についても、其の後昭和三十二年八月十日下刈慰労金として全組員に金二千円宛分配している事実から見るも、裁決書が推認したる如き性質の制裁規約的のものでないことも自明である。かくて同夜は今後鈴鹿市派から金品を貰つた場合は之を組に報告発表し互に買収を警戒し拒否するよう自発的な申合せをしたにすぎない。

尚裁決書は同夜組全員に「サんせい」なる片仮名平仮名混合の特殊の字型による投票を指示し、小岐須了をして調査の上反対派に投票した場合は飽く迄詮議の上罰則を適用する旨申渡して投票を強要したとあるが、五月二日夜かかる指示、強要をなしたが如き事実は全然存しない。

右投票に於ける投票立会人は訴外小岐須了と今村純一の両名であつたが、五月二日夜当時登里組とは右選任は関係なく組員にして右事実を知る筈がないのである。知つていた者は区長以下二、三の者にすぎない。

只「サんせい」なる記載方式については五月四日昼登里組集会所に居合せた老人婦人等の間において席上住民投票にはどんな字を書いても有効かとの話題が持上り、仮令片仮名平仮名が混つても「サんせい」と読めればどんな字体でも有効であるとの説明がなされたことがあり、当時偶々其の場に居合せた組員の訴外永井甫が傍の電柱に貼布してあつた「サんせい」なる字体のビラを剥がし一同にその例として見せ、こうした混合のものでもよいと説明したことがあるが、裁決書記載の如き五月二日夜全組員に字型を示して投票を強要したとの事実は全く事実無根である。右五月四日の際に於ても只単に説明を求められて説明した丈のことで、その間何等強要強制の如き事実は勿論ないのである。

誠に裁決書の理由にある如く、「サんせい」の字型の投票は三十九票存在していることより右字型の強要投票が推認されるならば、登里組員の内五月五日の住民投票に投票した有権者総数は七十三人であつたから、十ケ年組八分だとか二十万円の分配金をせずとの制裁規約に拘束せられ反対派の人々も涙を呑んで「サんせい」と投票したならば、その「サんせい」字型の投票数は少くとも七十票前後となるべき筋合であるに拘らず、現実には七十三票の内三十九票しかなかつたことは、投票人が裁決書に言うが如き制裁規約強要を受けず自由に投票したことを示す何よりの例証であると信ずる。尚右ビラに付一言するが、本件の住民投票に当り、鈴鹿市派は工業都市として今や躍進途上にある財源豊かな鈴鹿市をバツクに擁しその運動費も巨額且豊富で、ビラの如きも多色印刷の美麗上質のもの数種を作り貼布していたが、小岐須区に於ては鈴鹿山麓の小寒村の一部落で而も区費より辛うじて運動費用を苦面捻出している関係上ビラも半紙に毛筆にて組員の自発的奉仕により作られたもので各人各様字体も亦まちまちで片仮名平仮名混合のものも存在していたことは右の如き事情によるものである。

(二) 訴願要旨第二項記載の事実とは「同町の内南条組(戸数二十五戸当時の組長柴田弥七)においては、本年二月十六日「御掟」と称する組規約を作成し、「今後事の如何を問わず組の申合せに違反した場合は罰金除名(組八分)等の制裁を科する」旨を定めて組員に署名押印せしめ更に同年五月四日投票人を一ケ所に集合せしめて行動の自由を制限し、いわゆる賛成派か反対派か態度不明の者に対し前記登里組同様予め特殊の字型を定めて投票することを指示し、且つこれに違反しない旨の確約書に署名押印せしめて組内の有権者全員に賛成投票を強制した」との事実で、かかる事実ありと推認しているが右も亦全く事実無根に等しいものである。

南条組(戸数二十二戸有権者総数六十五名、投票人六十四名、当時の組長柴田弥七)においては昭和三十二年二月十六日「御掟」なるものを作成した事実はあるが、右は全く今回の住民投票とは何等関係のないものであるが、被告人委員会は右御掟の作成は本件の住民投票に際し賛成投票強要の為なりと推認したが明かに誤認である。

右御掟作成の動機原因は予て南条組下里組釜垣内組との間に組有山林の境界について紛争があり、両組の境界に存する新ハゲの尾根の立木を繞り夫々その所有権を主張し、昭和三十一年九月二十九日南条組において右新ハゲの立木を売却したことより紛争は更に拡大し、昭和三十一年十月四日付深伊沢郵便局受付第五〇三号を以つて下里組より南条組に対し厳重処分反対伐採禁止の通告があり、超えて昭和三十二年二月二十八日同局受付第八七六号を以つて南条組より下里組に対し所有者として権利を行使した迄にして法的手段に訴える旨の内容証明郵便を発して紛争を続けて居たが、右山林境界争いに付組の対策を協議決定するも、南条組組員中下里組等他組と縁故関係ある組員より他組員に右対策方針が洩れた為めに、右境界争いに付組の不利を招来することを危惧し、昭和三十二年二月十六日南条組組員全員の同意により自発的に境界争い問題に対処する為申合せを行い之を文書に作成し御掟と名付けた迄のことである。席上組員伊藤喬より「この掟は合併問題や選挙に関係があるかどうか」との質問がなされ、之に対し組頭柴田弥七は「合併問題選挙には一切関係はない山林境界問題に関するのみである」旨を明言し参集の組員も皆その趣旨を諒承して自発的になされたものである。このことは組員中鈴鹿市派の縁故者も多数存在して居り、席上右の作成の経緯組員伊藤喬の質問、柴田組頭の答弁を聞いているので一層明かである。而して本件の御掟の申合作成が今回の住民投票と全然関係なきものであることは、先に住民投票に至る経緯中にも記した如く、昭和三十二年二月十六日当時は旧三鈴村村会議員当時村議会に於て鈴鹿市合併申入決議が同年一月二十七日の新村会議員改選を目前に控えた一月十三日になされ、その後同年一月二十七日三鈴村新村会議員の選出があり、改選後の新議員による村会議会が開催されるに於ては鈴鹿市への合併申入決議は必ず取消され鈴峰村への合併申入が議決せられるであろうことを何人も信じていた処であり、この虞れある為一月二十七日の新議員改選後三月十四日迄丹羽村長並高野村議長は相諮つて新村会の招集をなさず、為めに新議長その他の選出も出来ず村政の上に非常なる渋滞と混乱を生ぜしめたが、此の三月十四日の新村会議員による初の村議会に於て初めて三鈴村の四日市市、鈴鹿市への廃村合併が議決せられ同時に三鈴村小岐須、小社、山本に付ては県新市町村建設促進審議会に於ける町村合併調整委員の調定により鈴鹿市へ編入後鈴鹿市に留るか鈴峰村に合併するかに付住民投票に付せられる線が始めて打出されたのであつて、昭和三十二年二月十六日当時何人も三月十四日に始めて打出された住民投票の執行せられることは夢想だにして居なかつたのであるに拘らず、被告委員会はこの掟の作成を恰も住民投票に関係あるかの如く推認して居るが、右事実に照して右推認が明かに誤認であることは右の事実に徴し明瞭である。

次に、同年五月四日投票人を一ケ所に集合せしめて行動の自由を制限し、いわゆる賛成派か反対派か態度不明の者に対し前記登里組同様予め特殊の字型を定めて投票することを指示し且之に違反しない旨の確約書に署名押印せしめて組内の有権者全員に賛成投票を強制したとあるも、かかる事実は之亦無根のことである。

当時南条組集会所は区の方針により鈴峰派の連絡事務所として使用していた関係上常に鈴峰派の者は頻繁に出入して居り又南条組の組員も臨時出入し、参集することは当然のことである。五月四日に集会所に集合したのも投票日を明日に控えて或は情勢の問合せ情報の交換等のため自発的に集つたものでこの間何等集合を強制したこともない。南条組有権者の中にも当日集会所に赴かなかつた者も多数あつたことも事実であり、そのことは此の間の消息を物語るものと言える。

況んや態度不明の者に対し特殊の字型を定めて投票することを指示したこともなければ又之に違反しない旨の確約書に署名押印せしめた事実もない。従つて組内の有権者全員に賛成投票を強制したことも全くない。組員に付個々に調査せば自ら判明する所である。

以上の如き推認をせられたのは、恐らく五月四日夜南条組組員北川とよ子が予て鈴鹿市派と見られている所から一般組員の手前をつくろう為集会所に宿泊した事実があり、同夜一旦帰宅するに際し同女から鈴鹿市派が来るとうるさいから付添つて来て呉れとの依頼により組員伊藤とみえが同女の自宅迄送つて行つたことを捉えて或は一ケ所に集合せしめて行動の自由を制限したりと推測せられたのであると思われる。同女の行動は飽く迄同女が自ら進んでなしたことで他の組員は同女の行動に付一切関与したことはない。まして自由を制限したことはない。

(三) 訴願要旨第三項記載の事実とは「前記二組を除くその他の組においても、いわゆる賛成派は投票の前日たる本年五月四日の夕刻から各組内の有権者多数を特定の場所に集合又は宿泊せしめて饗応し同月五日投票が終了する迄帰宅を許さず、その間外出の場合は監視人を付する等の方法で行動の自由を制限し且つ投票は特殊の字型を以つてすることを指定し以つて賛成投票を強要した」との事実であるが、之亦かかる事実は毫も存しない。只小岐須区住民中、山中宗一、山田とき、黒田長治、小林和已等が反対派の暴力を怖れるの余り保護を求めて来たので、之等の組員を反対派の暴力より護る為宿泊せしめたことがあり、又反対派の買収、脅迫、懇願その他あらゆる投票依頼を避けて自発的に集つた組員が自家米を持寄り自ら炊事して食事を摂つた事実はあるが、有権者多数を集合せしめ宿泊せしめ饗応したる如き事実は全然ない。有権者多数とは何人位なのか又特定の場所とは組集会所なりや又は他の別個の特定の場所なりやも明でなく漠然として明確でない。又何人が誰々に対し投票の終了する迄帰宅を許さなかつたのか、何人が誰々を外出の際監視したりや行動の自由を制限せられた組員は人数幾千なりや又特殊字型の指定による投票強要は何人に対し何処で行われたりや甚だ明確を欠き、昭和二十八年以来自己の生れ故郷が合併の為廃止分合せられる為慎重審議事は自己のみならず永く子孫にも大影響ある新村造りの血のにじむ熱望と念願の結集である今回の住民投票の効力の無効を宣するには、余りにも根拠薄弱、相手方、反対派の一方的言辞の歪曲誇張欺満等に眩惑せられたる形跡なしとせずの感を深うする。

村造りの念願と村民相互の幸福、子孫への遺産として将来の発展と幸福の為同志相集まり自家米を持寄つて会食することが強要による宿泊、饗応、行動の自由の制限であるとは到底是認し得ない所である。

六、而して裁決書がその理由中本件の住民投票を無効とする根拠に付示す所は訴願本人高野謙治郎、高野忠一、若林春一、高野丹治の各供述、早川峰子外七名の陳述書と全投票調査の結果であつて、所謂鈴峰派の柴田弥七、伊藤伊八、徳田清、永井甫、今村謙作、神野亨の供述並申入書は措信せず全て之を虚偽の供述として一顧だに与えず、反対派の供述を全面的に肯認し、既に指摘したる如く「同町が鈴鹿市から分離して鈴鹿郡鈴峰村に合併するか又は鈴鹿市に留るかにつき新市町村建設促進法第二十七条の規定による住民投票に付されることが予想されるに至つたのは昭和三十一年十一月頃からであり爾来合併派(いわゆる賛成派)と残留派(いわゆる反対派)が対立を続け……」とあるが、小岐須地区が鈴鹿市となつたのは昭和三十二年四月十五日であり、之が議決は同年三月十四日であり、更に三鈴村が鈴鹿市への編入合併をする申入の議決をなしたのは同三十二年一月十三日であることより、当時(同三十一年十一月頃)三鈴村に所属していた小岐須区民が住民投票に付されることに付何人と雖も予想夢想だに出来なかつた許りでなく、而も昭和三十二年一月二十七日の村議会議員の改選の結果その分野が大きく変動するに及んで、当時は全く小岐須区の境界変更については全然予測し得なかつたことは当然で、この点に関する被告委員会の理由は全く無責任極まるものであり、賛成、反対両派の対立を故意に理由付ける作為ありとも見られ、又南条組御掟の作成を住民投票と関連付ける為の対立の日時を遡らせたとしか受取れず、又「賛成派の有志をもつて合併実行委員会なるものを組織し……」とあるが之亦有志を以つて組織されている訳ではなく正式に区の機関で区長の下に顧問推進委員実行委員会を組織し区の正式の機関である。

又訴願要旨第一項、第二項、第三項にも記載せられている「……組内の投票人全部に……前記の投票を強要した……」「組内の有権者全員に賛成投票を強制した」「組内の有権者多数に……賛成投票を強要した」とあるを其の儘盲信してかかる事実を推認しているが、凡そ強要乃至強制なる法律用語はその意思なき者に対し威力その他不法の有形無形の圧力を用いその意に反し為すべき義務なきことを行わしめる概念である。

既に前文の次に記載したる如く、小岐須区に於ける三ケ村合併の区の総意は絶対多数を占め当初反対する者只一人訴願人たる訴外高野謙治郎のみであり、訴願人の策動による久間田村との合併による三鈴村の誕生、その直后更に鈴鹿市への合併議決等の為その意思を蹂躪せられ、庄内、深伊沢との合併の為過去三年余数十回の陳情請願を累ね、遂には三重県議会に対し議事堂前に数日に亘るハンスト迄決行した自発的に燃え上る区民の総意――延いては住民投票に於ける賛成派の熱意は、区全般に瀰漫して居る筈なるに拘らず、被告委員会は之の実情を無視し「組内の投票人全部」「組内の有権者全員」に賛成する意思なきに組織的の威力を用いて賛成投票を強要したと認定している。登里組南条組に於ては賛成派一人もなきことを前提としてこそ初めてこの「有権者全員」に対する賛成投票の強要は成立し得ると考えられる。

蓋し予てより鈴峰村合併賛成の意思を抱く者乃至はそれらの志を同じうする者に対する賛成投票の強要なる観念は考え得られず、かかる概念自体ナンセンスであるからである。

その他にも随所にかかる矛盾は存在するが、要は訴願人並その親戚縁者同調者の供述を一方的に盲信した結果に原因するもので、このことは被告委員会が行つた全投票の調査の結果より字型の種類を分類し、之を目して直ちに「賛成票獲得のための組織的集団的な強制、買収、談合とその実効を期する為に実質上投票の調査又は票の見せ合いと同視すべきことが行われたもの」と断じて居るが、単なる機械的なる投票の字型分類の数字のみではかかる複雑多岐の性質を有する判断は生じて来ない。或は同志相語らい投票字型の協議することも有り得べく、或は老人婦女子等に於て往々片仮名平仮名変態仮名の混合文字を書くことも考えられ、直ちに被告委員会の如き断定の結論は生れ得ない。かかる判断の生ずる根源は前記の如き訴願人一派の供述を盲信する所にあり、燃え上る烈々たる区民の総意は弊履の如く捨てて顧りみられない所に誤認が生ずるものと思われる。

尚訴願要旨第一、第二、第三項の事実に付「認定」せずして「推認」した点よりせば、右訴願人の供述を措信した外、推測、推定が加味せられているやに推認せられ、又因つて以つて事実誤認の生ずる一因となるものと思われる。

尚、今次の住民投票に際し、鈴鹿市派はこの小岐須、山本、小社の三地区を鈴鹿市に獲得する為、鈴鹿市長、同助役始め市会議員その他暴力団的なもの迄動員し厖大なる運動資金とにより猛烈なる支持応援をなし、小岐須、小社、山本の小寒村の各部落は鈴鹿市側の金と数とに圧倒せられ、増々同志的団結を固う強くして之に対処したことは事実であり、組織的、集団的圧力により投票の自由、公正、秘密を侵害されたのは寧ろ却つて逆に鈴峰派であると言い得る程である。

七、右の外、投票所内外に賛成派のビラ、ポスター等が多数貼付され、撤去を妨害せられ投票所の管理が公正を欠くとの事実を認められたが、右は著しく真相に反し之亦事実の誤認である。

投票当日投票所入口附近に貼付されていたビラ、ポスターは、独りいわゆる賛成派のもの丈でなく、反対派のビラ、ポスターも同様に多数貼付されていたのに拘らず、鈴鹿市選挙管理委員会栗本重書記が乗用車で乗付け、賛成派のビラ、ポスターを剥ごうとした為、訴外水越脩は「ビラを剥がなければならないのであれば当方で剥ぐことにするが法的に見て剥がなくてもよいのなら反対派のビラ、ポスターも貼つてあるのだから、この儘の状態にして置いて欲しい、この上新しく追加することはしないが法的な見解、解釈はどうか」と訊した処栗本書記は「法的に見てどうしても剥がなければならぬということはない」との回答であつたので、それ以上ビラを貼ることをせずそのままとしたのみで著しく真相に反する。右ビラ、ポスターの件に付きかかる手違い或は法的解釈の相違があつてはならぬとの配慮の下に、投票前日賛成派の訴外今村純一、同徳田清を鈴鹿市選挙管理委員会に派して疑義を訊したが確答は得られなかつた事実迄存する。

右の如き完全な話合い、諒解の下になされた事実に対し、威嚇妨害の為ビラの撤去が出来なかつたというに至つては、責任回避転嫁も甚しいと言わざるを得ない。

殊に訴願人提出の写真五葉は、反対派の撮影したもので反対派のビラの貼布してある個所を故意に避け、賛成派のビラのみを写したもので、誠に公平を欠くものと言わざるを得ない。

鈴鹿市選挙管理委員会は投票所入口附近には反対派のビラ、ポスター類は一枚も貼布してなかつたと言うのであろうか、賛成派のビラ、ポスターのみに付言及して他は黙して語らぬ点は誠に明朗を欠き不公平の譏を免れない。

この事は又「投票日当日投票所出口附近に多数人が集結して内部を窺い代理投票に対しその投票を見せよと異口同音に呼び以つて代理投票の秘密及び事務従事者の職務を妨害しようとした」との事実の認定に付ても同様である。

従来椿村の例にては盲人等の代理投票に付ては付添人に之を見せて確認を得て投函することになつていた処、今回の住民投票に於て鈴鹿市選挙管理委員会は付添人に之を示すことなく其の儘投函するので疑義を生じ、従来の椿村の例にならい付添人に之を示して確認の後投函せられたい由を申入れたのであつて、代理投票の秘密を侵し事務従事者の職務を妨害したるが如き事実はない。

代理投票については、先に三鈴村に於て投票立合人が公正を欠く所から不明朗なる事態の発生した先例もあつたので、賛成派よりかかる要求がなされたことも蓋し当然である。

この申出に対し反対派は猛烈に反対し鈴鹿市選挙管理委員会の言う所に従い其の儘でよいと主張し、賛成派反対派が互にその主張を大声にて言い合つたので就中奇声を発して騒いだのは反対派の訴外高野雄であつたことも人の皆認むる所である。

投票所出口附近に集結したのは「多数人」とのみあつて賛成派とも反対派とも表示せず、この記載よりしては賛成派の所為とは判じ難いが、理由の全趣旨より被告の意図する所は賛成派の妨害と認めているかの如くである。

何れにしても前記の如く、かかる事実は存しなかつたのである。

この点も亦公平を欠く譏を免れない。

八、有権者組別の明細、住民投票有権者は有権者組別明細表住民投票有権者名簿左の通りである。<省略>

九、被告の認定と警察検察庁の捜査の結果

(一) 本件の裁決書は昭和三十二年八月十五日付三重県公報号外により告示せられたが、これより先同年五月五日施行の住民投票の結果鈴峰村へ編入を希望する所謂賛成派が三分の二以上の投票を獲得したので鈴鹿市小岐須町の地域を鈴鹿郡鈴蜂村に編入する市村の境界変更の法的手続即ち県議会の承認並県知事の境界変更の告示等も完了していたこととて、右裁決書が同年五月五日施行の住民投票を無効となした為県当局並県議会に於ても問題となり、遂には右裁決書が認定したる如き事実の有無に付三重県刑事課が刑事事件として正式に之を取上げて、地元亀山警察署と協力して全能力を挙げて之が捜査に乗出したのである。

而して他方津地方検察庁においても之が捜査を開始し同庁検事小川源一郎、同副検事園部計三、同富増武雄が中心となり、その真相の究明に鋭意当つたのである。

(二) 右の捜査は同年九月上旬より開始せられ同年十二月末頃迄継続せられ、取調を受けた人員は所謂賛成派のみにて合計六十四名に達し、尚所謂反対派の者も亦右と略同数位取調を受けたものと思われ、双方を合算する時は優に百数十名に上る多数人を取調べているのである。

(三) 而もその取調は峻烈を極め、真相究明の為徹底的に取調を受けたのである。所謂賛成派の登里組組長永井甫の如きは警察に於て前后七、八回に亘り峻烈な取調を受け更に検察庁に於ても同様七、八回の峻烈なる取調を受け、途中精神に異状を呈し遂には自殺の虞ありとして一時取調を中止して保護せられた程で如何にその取調が峻烈で真相発見の為徹底的になされたかがこの一事にても明かであろう。

(四) その取調の内容は勿論右裁決書に於て認定せられた登里組南条組等に於て所論賛成派が多数の威力を用いて組の掟規約を作成して賛成投票を強要し或は投票の字型を指示強要し又投票人を一定の場所に集合宿泊せしめて帰宅させず外出には看視人を付する等脅迫監禁等の事実、又その他の組に於ても右同様の事実ありたりとして、所謂賛成派の住民は続々呼出を受けて厳重峻烈なる取調を受けたのである。

(五) 然るに、警察検察庁に於ける右の捜査の結果は、右裁決書が認定したる如き所謂賛成派の違反事実は全くなく、何れもその処分結果は罪とならず或は犯罪の嫌疑なしとの理由により不起訴処分となり、遂に所謂反対派に悪質なる買収事犯のあることが発覚し反対派の幹部である

高野忠一

高野丹治

の両名は同年十二月末頃津地方裁判所へ起訴せられる結果となつたのである。この事件は過日津地方裁判所に於て何れも有罪の判決言渡を受け罰金三千円也に処せられ目下控訴中で名古屋高等裁判所第四部に繋属中である。

而も津地方検察庁の処分結果を見るに、右の如き多数の賛成派の住民が右裁決書記載の如き刑事事件の容疑者として取調を受けたに拘らず、事件として立件せられたものは僅か十七件にすぎず而も右十七件の内、所謂賛成派は五件他の十二件は反対派である。その処分結果は別添第一図一覧表の通りで尚取調られた賛成派の人名は別添第二図一覧表の通りである。

(六) 右の事実は、三重県刑事課、亀山警察署、津地方検察庁が捜査の全能力をあげて、裁決書が認定したる事実に付真相の究明をなした処、何れも賛成派には右の如き事実の無かつたことを有力に証明したものであり、裁決書の認定の誤りであることを立証したものである。

而して捜査の結果は皮肉にも所謂賛成派の強圧下に迫害せられ強要せられたりとして被害者の如き立場にあつた反対派に悪質の買収事犯、暴力事犯のあることが発覚し遂に買収事犯は起訴せられ、津地方裁判所に於て有罪の言渡を受けるに至つたものである。

(七) 右の結果、本訴に於て原告の主張は恰も三重県刑事課、亀山警察署、津地方検察庁の判断、結論と同一で、均しく被告三重県選挙管理委員会が裁決書に認定したる如き事実は全然事実無根であるとの同一結論となつたのである。

従つて名古屋高等裁判所に判断を求めるのは右被告県選管(三重県選挙管理委員会の略)の裁決書の認定が正しいのか或は三重県刑事課、亀山警察署、津地方検察庁の結論が正しいのかという点に帰する。

(八) その何れが正しいか内容より検討する。

先ず、捜査調査の陣容より考察する。

三重県刑事課、亀山警察署、津地方検察庁の捜査の陣容は厖大なるもので被告三重県選挙委員会の調査陣容はたかだか数人乃至十人内外で問題とならぬ位貧弱である。

次に、捜査調査の期間より之を考察する。

被告県選管は訴願を提起した同年六月 日より同年八月上旬(裁決書作成日時は同年八月五日である)迄約二ケ月であるに反し、警察検察庁は同年九月上旬より同年十二月末頃迄約四ケ月の長期間に亘るものである。

次に、取調の対象人数の点より之を考察する。

被告県選管に於ては訴願人高野謙治郎、若林春一、高野忠一、柴田弥七、伊藤伊八、徳田清、永井甫、今村謙作、神野亨を取調べたのみで、而も柴田弥七以下六名は同年七月二十五日午后二時頃より柴田弥七に付約一時間、伊藤伊八、徳田清、永井甫、今村謙作、神野亨の六名は一括して約一時間位事情を聴取せられたのみで、何等その間調査らしきものを認めることが出来ない杜撰極るものである。而も早川峰子外七名の同一筆蹟による同一用紙、同一用式の署名も同一筆蹟の一見して偽造の疑十分なる陳述書なるものを訴願人の訴願の趣旨の唯一の裏付となす如き不当を敢てなしているのである。

之に反し警察検察庁に於ては捜査人員のみにて優に百人以上の者を峻烈厳重に取調べ、その他強制力を用いた真相発見の為の本格的捜査をなしているのである。

而も警察検察庁の捜査には強制権の裏付があり、只陳述人の陳述をそのまま聴取するにすぎない被告県選管の調査とは凡そその類を異にし、その優劣、真偽、正非は問はずして自明である。

以上の諸点より考察して、被告県選管の認定が正しいか或は警察検察庁の結論が正しいか、この一事のみにて他の証拠調を待つ迄もなく自ら明かであると原告は確信を以つて主張し得るのである。

一〇、尚訴願人高野謙治郎は同年九月上旬津地方法務局人権擁護課に対し組の申合規約による組八分、投票強制の人権侵害ありとして救済の申立をなしたので、同局人権擁護課に於ては高野謙治郎、高野丹治、高野忠一、若林春一、水野光郎等につき事前調査、事情聴取をなし且現地調査の後、賛成派の今村弥六、神野亨、永井甫、柴田弥七、水越脩に付調査取調をなしその結果人権侵害の容疑なしとて却下せられた事実がある。

当時の津地方法務局人権擁護課長は現大阪地方法務局人権擁護部第一課長藤井三郎であつた。

一一、被告委員会は証人尋問に付過去の経緯、現在迄の推移は尋問の必要なしと主張するが、この事実を知らなければ本件の問題の真相は把握されず又了解されない。

之を知らずして判断した処に、被告委員会の事実の誤認が生じたのであり、独断に陥つたのである。

市町村合併促進法が施行せられてより如何なる経緯を辿り住民投票なる最悪の事態に立至つたかを明かにすることにより、真の村民の意向乃至動向を明かに把握することができ、真相は茲から明かとなるのである。

その奥に潜在する政治的特殊事情を明かにすることも亦本件の真相を明かにする重大なる鍵である。

表<省略>

第二、被告代表者は答弁として次のように述べた。

請求原因一及び二の事実は認め、同三乃至七の事実については裁決書記載以外の事実は不知又は否認する。(裁決書記載事実に反しない主張はこれを認める。)

一、原告はしきりに三ケ村合併が区の方針であり、総意なる如く主張しているが、その総意、方針なるものは原告の主張(請求原因四後段)自体によるも全戸数百二十一戸、有権者総数三百七十余人中僅かに八十八人が出席投票しているに過ぎず、しかも賛成者はそのうち五十八人に過ぎない。更にこの投票は記名投票によつていることは特に問題としなければならない。

尚、本件住民投票当時には右三ケ村合併案なるものは全然存在せず原告らが運動していたのは四ケ村合併である。又、鈴鹿市合併派は訴願人たる訴外高野謙治郎一人であつたと主張しているが何れも虚偽である。

二、原告は請求原因五の(一)で「区長柴田文四郎初め区の役員がかかる区の方針に反する裏切的行動を憂いて総辞職したことがあり、(この不信行為をした者は訴外早川峰子夫妻であつた)」と主張しているが、この主張自体、集団、組織の威力を用いて区民の投票に対する自由意思を拘束し、ボスによつて作られた方針なるものに服従させようとしたことを自白しているものといわねばならぬ。

三、五月二日夜、登里組において作られた決議書なるものの中には明かに鈴鹿市への合併に投票した者には組の分配金を一切しないことをうたつている。而して原告はこの事実を自認している以上もはや弁解は無用である。

四、五月四日、登里組集会所において、いわゆる賛成派に属する永井甫が老人、婦人等に対し「サんせい」なる字体のビラを示して説明したとの原告の主張はそれ自体投票の誘導、談合を物語るもので、問うに落ちず語るに落ちたといえる。

五、原告は又右「サんせい」なる投票は全投票七十三票中三十九票しかなかつた事実は登里組全員に対し右字型による投票が強制されたことのない例証だと主張するが、これは原告らいわゆる賛成派の有志を除きその他の組員全員たとえば態度あいまい又は不明のもの、反対派と何らかの関係ある者と目される者等に対し指示したものにほかならない。

ところで原告は右「サんせい」投票三十九票の数字を認める以上、これを如何に説明するか。

六、原告は南条組における「御掟」は山林に関する問題に限られていると弁解しているが、その作成の時期は前記のとおりであり、又もし原告主張の如く山林問題に限るならば何故そのように書かないのか、「事の事態を問わず」とは読んで字の如しである。

更に「御掟」に附属する「誓約書」にも「事の事態を問わず慎重審議決議の上は組の主旨に従い同意する」ことを誓約させていることと考え合せば、組で決定したことは(決定のしかたに問題のあることは前記のとおり)事の如何を問わず同意せしめ、違反者に対して組の罰則(除名=組八分、罰金懲戒、陳謝)を適用することによつてこれを強制した事実を物語つている。

七、代理投票について原告は付添人にこれを見せて確認を得て投函することになつていたと主張するが、さようなことは常識的にもあり得ないことで、且つそんな事例は存在しない。仮に他の投票所で行われたことがあつたとしても一般投票人がこれを強要し得るものではない、須く選挙管理委員会又は投票管理人の指示に従わねばならないのに多衆の気勢を示して正当な投票事務の執行を妨害することは一種の暴力選挙、(投票)である。

八、原告はしばしば本件投票の不正、不法行為はいわゆる反対派にも存在したことを主張するが、本件無効はその原因、行為者が、原告らいわゆる賛成派の側にあろうが、はた又反対派の側にあろうがこれを問わない。もし原告主張の如く双方に存するとせば、その無効は尚更のことといわねばならない。原告は本件事案を個々の不法行為事件の如く誤解しているのではあるまいか。

九、小岐須地区各組の昭和三十一年九月十五日現在における基本選挙人名簿登録者数及び本件住民投票日当時における有権者数は概む左に記載のとおりである。

但し右員数は三重県鈴鹿郡鈴峰村選挙管理委員長より同県選挙管理委員会宛の調査報告によるものであつて、その調査方法は世帯台帳により推認したるも、正確な有権者数は不明なりとのことである。

表<省略>

一〇、原告は本件住民投票の結果既に市村の境界変更の法的手続が執行されているにもかかわらず、県選挙管理委員会が訴願裁決において住民投票を無効としたので問題を起したというが、新市町村建設促進法第二十七条第十一項において公職選挙法第二百十四条の規定、つまり「争訟の提起があつても処分の執行は停止しない」という処分執行の不停止の規定が準用されているのである。従つて争訟の提起と処分の執行は全く別個の手続にもとずいてこれを行うことができるものであるから、処分後の訴願裁決等も可能であり、又争訟の確定をまたずに処分することも可能であるが、少くとも本件については知事がその処分を行うまでに既に異議の申立及び訴願の提起があつたのであるから、その実情に即して知事は境界変更の処分の可否を決すべきものであつて、少くとも訴願裁決の段階において知事がその処分を行つたことによつて裁決に手心を加えることは許されないものである。

一一、次に原告は本件住民投票にかかる司法機関の捜査の結果等を引用して本件投票はその自由公正が確保されたと主張するが、およそ刑事事件と行政事件とはその目的を異にするものであり、個々の行為の因果関係についてもこれを同一に論ずることはできないものであると同時に、刑事事件に関しては個々の行為が犯罪構成要件を充足するについて法律の適用上又は法律の解釈上種々問題とされるところがあるが、行政事件たる本件住民投票の効力に関する争訟については新市町村建設促進法第二十七条第十一項において準用する公職選挙法第二百五条第一項において「選挙の規定に違反することがあるときは選挙の結果に異動を及ぼす虞がある場合に限りその選挙の全部の無効を裁決しなければならない」と規定する如く当該投票が第一に選挙の規定に違反したかどうか、第二にその違反事実が選挙の結果に異動を及ぼす虞があるかどうかを判断すれば足りるものである。

一二、ところで「選挙の規定に違反することがあるとき」とは、選挙の管理執行機関が選挙の管理執行の手続に関する明文の規定に違反する場合のみならず、直接明文の規定はなくとも選挙法の基本理念たる選挙の自由公正の原則が著しく阻害されるとき(昭和二三、六、二六最高裁判決、昭和二七、一、二四最高裁判決)、不法な選挙運動又は選挙干渉若しくは選挙妨害が一定の選挙区に亘り全般的かつ組織的に行われて選挙の自由公正が没却されるような場合(昭和一八、一〇、二九大審院、昭二〇、三、一大審院、昭和二五、一二、二五東京高裁判決)又は候補者、選挙運動者または選挙人等が選挙法の取締規定に違反した場合(昭和三〇、八、二六大阪高裁判決)等既に判例において明らかであるが、要は個々の事実が法律の規定に違反してなされたか又は選挙人が自己の良心に従つて本人の意とする通りの投票をする自由及び投票に関し選挙人が法令の規定の範囲内において行う投票運動の自由が侵されたかどうかを判明すればよく、従つてその自由、公正を侵害した行為が犯罪を構成するまでには至らなくとも、これが原因して結果的には自由公正が確保できず、引いては選挙の結果に異動を及ぼすことが推認されればよいものと解するものである。

更に「選挙の結果に異動を及ぼす虞れがある場合」とは、異動を及ぼすことが確実である場合に限らず結果に異動を及ぼす可能性があれば足りるものである(昭和二十七、十二、五最高裁判決、昭和三二、三、二東京高裁判決)。従つて違法事実があり不正行為が行われる可能性があれば、現に不正行為が行われたと否とにかかわらず右の選挙の結果に異動を及ぼすおそれある場合に該当する(昭和三〇、二、一〇最高裁判決)ものとされるものであるから、更に不正な事実と選挙の結果の異動の有無についてその蓋然性を判断すればよいというべきである。故に右にも一寸ふれた如く選挙管理委員会の調査と司法機関の捜査の段階において自らその相違が明白に存することは右のことよりしても判明するところである。

一三、なお、原告は、司法機関の捜査は、昭和三十二年九月上旬より同年十二月末頃まで継続してこれがなされ、その取調は峻烈を極め登里組組長永井甫の如きは警察において前後七、八回、更に検察庁において七、八回峻烈なる取調を受けたと主張するが、これは被告の主張を全く裏付けるものであつて語るに落ちたというべきである。即ち投票が平穏無事に執行されたものであればかかる期間にわたつて峻烈な取調をすることは無用のものであり、永井甫の如きも疑わしい行為があつたればこそ前後七、八回にわたつてその取調がなされたものである。

一四、又県選挙管理委員会の調査期間と司法機関の捜査の期間を云々するが、捜査は昭和三十二年五月五日執行された投票につき四ケ月の長き期間を経過した同年九月上旬より着手したものであり、証拠湮滅その他の手段が容易に講ずることができる期間を経過したものである以上、その捜査は極めて困難をきたしたもようで、原告主張の不起訴処分は恐らく捜査困難のため立件するにいたらなかつたであらう。又起訴されなかつたから犯罪事実はなかつたともいえない筈である。

一五、原告は本件を糾明するには町村合併促進法が施行後の経緯を明かにすることがその真相を明らかにする重大なる鍵であると主張するが、およそ市町村の境界変更に関する選挙人の投票について提起が認められる訴訟は新市町村建設促進法第二十七条第十一項において公職選挙法第十五章の規定がその性質上準用できない部分(選挙の一部無効等)を除き、原則的にすべて準用される投票全体の効力に関する訴訟及び投票の全体の効力については争いがないが、これに基く賛否の結果の決定の効力に関する訴訟に限られるもので、専ら行政法規の適用の客観的適正を目的とする所謂民衆訴訟に該当するもの(昭和二四、三、一九最高裁判決)で住民投票の自由公正を確保するために認められたものである。

従つて本件についてみるに本件訴訟は訴訟提起の根拠を新市町村建設促進法第二十七条第十一項において準用する公職選挙法第二百三条の規定に基き提起された訴訟であり、本件訴訟に対する訴訟法規の適用については同法同条において準用する公職選挙法第二百十九条において「本章の規定による訴訟については、本章に特別の定があるものを除いては、行政事件訴訟特例法第八条、第九条、第十条第七項及び第十二条の規定を適用する外、民事訴訟に関する法律の定めるところによる」と定めている如く行政事件訴訟特例法及び民事訴訟法の規定によつて提起する事件とは自ら訴訟法規の適用に限界があるものであつて、専ら右の公職選挙法の規定にもとずき投票の効力に関する事項のみ訴訟の対象となるものである。つまり前述の如く知事の投票請求にもとずいて鈴鹿市選挙管理委員会がなした投票の告示から市村の境界変更の賛否の決定にいたる集合的行為又は投票に直接的に関連する行為が投票の効力に影響を及ぼすかどうかをその対象とするものであり、専ら公職選挙法の準用によつて執行した投票そのものが直接的に対象とされるものであるから、原告が主張する町村合併の経緯就中、知事勧告、町村合併の処分及び調定案の作成等の適不適は本件訴訟において同時に争うことはできず又これを原因として投票の効力を争うことはできないものである。

一六、住民投票制度と公職選挙法

(一)、住民投票は、地方公共団体における直接民主制の理念にもとづく制度で、住民が能動的な地位において地方公共団体の内実について可否を決する手段となるものである。故に選挙が間接民主制の理念にもとずく制度として住民が他の者に地方公共団体の政治を信託し、地方公共団体の政治の担当を授権するための手段としてその政治を担当し、これを決定する者に対する住民の信任の表示であるのとは全く異り、住民投票は地方公共団体の内実の決定についての住民の意志表示である。従つて住民投票と選挙との間においては、住民の「決定する能力」と「選ぶ能力」の差異にもとずき住民の地方公共団体に対する深い理解と正しい判断とのもとに責任をもつた投票をすることは住民投票における場合の方がはるかに強度に求められているものであり、従つて住民に対して制度が要請する自由公正に関する理念的なものも選挙の場合よりは強く要請されているものである。即ち住民投票は具体的な地方公共団体の問題を決定する一つの手段であるから、住民の判断の度合及び責任の度合が地方公共団体の存続を左右するという効果に大きな影響をもつものであり、かつこれが投票によつて決定せしめられるもので、一度決定されたその意志表示はもはや取消又は撤回が不可能とされるからである。

(二)、本件市村の境界変更に関する選挙人の投票(以下本件住民投票という。)についても投票という手段によつて境界変更の可否について選挙人の判定を下さうとしたものである以上、選挙人に要請された境界変更に関する非常に精密な知識とこれに対する理解はもとより投票を行使するにあたつての正しい判断と自らの責任による投票は右の制度上の理論からしてもこれが要請されていたことは明白である。

(三)、ところで本件住民投票と公職選挙法との手続法上の関係であるが、そもそも市町村の境界変更に関する選挙人の投票は、新市町村建設促進法をその法的根拠とするもので、同法第二十七条第四項の規定により「知事が境界変更に関しこれを選挙人の投票に付することを当該市町村の選挙管理委員会に対して請求したとき」において同条第六項の規定によりその投票の手続が行われるものであり、本件住民投票については、乙第二十号証の十三昭和三十二年四月二十三日附地第八一六号「投票請求書」にもとづき三重県知事から鈴鹿市選挙管理委員会に対してその請求がなされたことにより鈴鹿市選挙管理委員会において公職選挙法の準用規定等にもとずいて投票の手続が進められたものである。

(四)、投票の具体的な手続については、新市町村建設促進法第二十七条第十一項の規定するところにもとずき公職選挙法中普通地方公共団体の議会の議員の選挙に関する規定(政令で特別の定めをするものを除き、罰則を含む。)が準用され、公職選挙法が理念とするすべての原理がこの投票の執行についても採用されているもので

(イ) 選挙人に関するものについては、三ケ月以来当該請求に係る区域内に住所を有する者で当該市町村の議会の議員の選挙権を有し、かつ、当該区域内に住所を有する者として選挙人名簿に登録されるものが選挙人であるとして、所謂成年者による普通選挙及び平等選挙の思想が認められている。

(ロ) 投票の手続に関するものについては、投票管理者及び投票立合人に関する規定を除いて公職選挙法第六章並びに同法施行令第四章及び第五章の規定中準用の可能なすべての規定を必要な読替をもつて準用し、公職選挙法が定める選挙手続の諸原則である無記名投票制、単記投票制、一人一票制、投票自書制、秘密投票制、任意投票制等の原則が採用されている。

かくして、選挙制度の基本原理ともいうべき普通、平等直接、秘密選挙の原理が前述の如く住民投票にも貫かれ、選挙制度の基本原理即住民投票の基本原理とされているものであるから、本件住民投票の執行手続面からしても全く公職選挙法が目的としている選挙が選挙人の自由に表明せる意志によつて公明かつ適正に行われることを確保することに万全の配意が必要であり又選挙人においてもその投票の行使にあたつて自らの判断にもとずき責任をもつた投票をすべきであつたものである。

(五)、県選挙管理委員会が住民投票の請求がなされたことにともない乙第二十号証の十三四月二十四日附地第八一六号、「市村の境界変更に関する投票請求について」により県総務部長との共同通牒によつて投票事務の執行にあたつては法令の定めるところにより厳正公正に執行し、投票が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明かつ適正に行われることを確保するよう強く指示すると共にその執行手続に関する事務打合せについても鈴鹿市選挙管理委員会との間に詳細にわたつて行いその執行の遺憾なきを期するため地方自治法第百八十七条第二項の規定にもとずき指導したところは本件住民投票に関しての制度上の要請を十分に充たしめることは勿論のこと公職選拳法の理念とする自由公平なる投票の執行をあくまでも期待したからである。

(六)、次に選挙人の投票に関する運動の規制についてであるが公職選挙法第十三章の規定中投票の公正を確保するための必要な規定を準用することを建前とし、特に弊害の多い運動方法の禁止の規定等を準用することとし、かつ罰則についても公職選挙法第十六章の規定中住民投票に準用可能なすべての規定を準用することによつて投票の自由公正を確保しようとしているものであり、本件住民投票においてみられた運動ののばなしは決して法の認容するところではなく又公職選拳法にその明文の規定がない事項についても、「それがはなはだしい弾圧、干渉、妨害または広範囲にわたる買収誘惑等のためとうてい選拳法の理念とする自由、公正な投票が期待しがたいような事由がある場合」(昭和三〇、八、二六大阪高裁判決)についてはこれが禁ぜられるものであるを思えば、この運動の規制は極めて巾の広いものであるといわなければならない。

(七)、又選挙管理機関が行う選挙に関する啓発周知等の措置に関しても公職選拳法第六条の規定を準用することによつて法はこれに関する適切な措置を求め投票の公明かつ適正の保障を期待しているものであるが、鈴鹿市選挙管理委員会においては選挙人に周知せしめるべき投票の方法、選挙違反その他投票に関して必要な事項に関して毫もその措置をなさなかつたのであるが、少くとも同委員会が住民投票の制度上の重要性を理解し、選挙人の住民投票に関する周知啓蒙に一般の意欲をもち又法の適正な運用についてき然たる態度で臨んだならば、今少し未然にかかる好ましくない事態は防止できるものであつただろうことを思料し、かつこれを「選挙管理委員会が選挙に関する啓蒙、周知を著しく怠り、これがため選挙の結果に異動を及ぼす虞ある場合は選挙無効の原因となる」(昭和二八、六、一東京高裁判決)との判決にまで思いを及ぼすとき誠に遺憾のきわみである。

(八)、なお、本件住民投票に至るまでの経緯及びこれに関連する町村合併の経緯については、次の通りである。

〔一〕 旧鈴鹿郡久間田村、深伊沢村、椿村及び庄内村にかかる町村合併計画案作成までの経緯

1 町村合併促進のための県の任務について

昭和二十八年十月一日町村合併促進法が施行せられることに伴い県内における町村合併の促進にあたることになつたが、この法が意図した町村合併は明治二十二年の町村合併がいわゆる天下りの合併であるのとは全く異り地方自治の本旨に則つた自主的な合併であり町村自体が自らの意思に基いて行う規模の再編成をいうものである。従つて町村合併の当事者は町村自体であり、あくまでも町村がその実施者であるが、しかし実際には町村合併を全国的に又は全県的に実現していくには、国又は県が何かを行わなければならない。つまり地方自治の確立とその発展が全国民の福祉を増進するものであり、そしてそのためには町村合併の大巾な推進が必要であるからであり、又町村合併が全国民的な関心事ともなるものであるから当時者たる町村が自ら進んでその規模の適正化を図らなければならないことは勿論のことながら、これを援助し協力するものが当然必要とされるものである。そこで県がここに一枚加わらなければならず、かつその行うべき役割は町村の援助者として合併の促進のための措置を講ずるということになるもので、積極的に町村合併の促進を図るとともに消極的に町村合併の障害を取除く措置を講じ町村合併を容易ならしめることがこれである。

2 町村合併促進審議会の職務について

県においてはその任務を果たすために町村合併促進法第四条の規定にもとずき地方自治法第百三十八条の四第三項に定める附属機関として三重県町村合併促進審議会が設置され、その促進態勢を整えることとなつた。

町村合併促進審議会は先述の如く執行機関の附属機関たるものであり、知事の諮問機関たる性格をもつもので、通常知事の諮問に応じて町村合併に関する計画の策定について調査審議する他に知事の求に応じて町村合併の促進について啓発、宣伝、勧奨及びあつせんを行うことをその職務とするもので所謂執行機関が保有する行政の執行権等までは行使できないものとされているものである。

3 町村合併案の作成について

かようにして設置された三重県町村合併促進審議会に対して知事より昭和二十八年十二月十一日地第一四九三号をもつて「県下の町村合併に関する計画の策定について調査審議の上、なるべく速かにその具体的計画を示せ」という旨の町村合併に関する計画の策定についての諮問が発せられたことにより同審議会は、同月同日その第一回の会議を開催し、その諮問に応ずる旨の確認をするとともに昭和二十九年一月九日第二回の会議を開催し、昭和二十八年十二月十八日閣議決定せられた町村合併基本方針に則してその調査審議を行うことを確認すると同時に「今回の町村合併の促進は全ての町村にわたつて町村間の合併により弱小町村を解消し、その規模能力の増強を図り町村は町村としての姿においてその発展を期することを主たる目的としているものであつて、市に編入することは例外的に考慮せられるものであること、但し隣接町村が市に編入することが綜合的立場から考慮して合理的であり、それが住民の福祉を増進するものであれば、その場合は町村と市との合併も考慮する」との町村合併基本方針附帯決議を行い各市町村長に通達する一方かねてより県下各郡を単位として県議会議員、町村長、町村議会議長、町村教育委員会委員の代表者及び学識経験者から構成する地方審議会(任意に設置されたもの)に対しても右の附帯決議を通知し、かつ昭和二十八年十二月二十一日合審第一号「地方審議会管下の町村合併に関する計画の策定について」により、すみやかに地方審議会の所管に属する町村にかかる合併計画の策定について調査審議せしめ、二月末日までにその具体的計画案を作成の上県審議会に提出するように命じた。

よつて各地方審議会においてはそれぞれ審議会を開催し、合併計画を進めることになつたが、その審議の方針としては県審議会が示した方針に則り町村は町村どおしの合併を行わしめることとして関係郡内における町村合併案を作成、県審議会に提出することになつた。

従つて県審議会においては、それぞれ地方審議会から提出された合併計画案にもとずき審議のうえ昭和二十九年四月二十日開催の第十一回県町村合併促進審議会において第一次策定分の町村合併計画を決定するに致つた。

旧鈴鹿郡久間田村、深伊沢村、椿村及び庄内村にかかる町村合併計画については、県審議会においては、先述の如く鈴鹿地方審議会によつて作成された計画案を根基として更に地勢、交通、経済事情を考慮のうえ綜合的に検討のうえ右の四ケ村合併計画案を承認するものとし、昭和二十九年四月二十日開催の第十一回県町村合併促進審議会においてこれを決定、同年四月二十一日合審第二〇号「町村合併に関する計画の策定について」により関係村に対して住民の十分な理解のもとに感情にとらわれず大乗的見地よりこの計画の円滑かつ迅速な実現に協力を求める旨の勧奨文を発するとともに地方審議会長に対してもこの計画にもとずく合併促進についての積極的な指導を求めることとしたものである。

〔二〕 新市町村建設促進法の規定にもとずき勧告が発せられるまでの経緯

1 新市町村建設促進法について

町村合併促進法は三年の時限法として昭和二十八年十月一日から施行されたが昭和三十一年九月三十日をもつて失効することとなるので、これに代つて新市町村建設の基本となるべき事項を明らかにするとともにこれに対する国又は県の援助の措置を明らかにすることによつて新市町村の建設を促進し、その健全な発展の基礎を固めしめる一方新市町村の建設と関連して町村合併に伴う争論を合理的に解決する制度を設けるとともに町村合併促進法の有効期間中に合併が行われない小規模町村に対する合併の推進についてもあわせて必要な措置を定め、町村合併の完遂とこれをめぐる争論の合理的解決を期そうとして定められたもので、昭和三十一年十月一日から五年間の時限法として施行されることとなつたものである。

2 新法の下に行う町村合併の推進について

町村合併は町村自治の強化のための町村の再編成事業である限り、これを中途半端で止めることは許されないものであるので町村合併促進法失効後は新市町村建設促進法の規定により合併計画を再検討したうえ合併の完遂を期そうとするものである。

つまり未合併町村の合併が進まない主な原因として県の合併計画において合併すべきものとされている町村の合併自体の適否又は合併ブロツクの適否について異論がある場合が挙げられているので、町村合併促進法の失効後に残された未合併町村の合併を積極的に進めるためには、必ずしも従来の計画にとらわれず、これを見直す必要がある。そのため十月一日以降県にあらたに設置された新市町村建設促進審議会において充分な検討を加えるとともに全国的な見地から未合併町村の合併の適否について判断し、かつ従来の行きがかりや不合理な政治勢力等にとらわれない見地から合併計画を調整する立場にある内閣総理大臣にも協議して合理的な合併計画を定めることとし、かつかくして定められた町村合併の最終計画は知事の勧告という強力な方途によつてその推進を図るべきものとされたものであり又その勧告は昭和三十二年三月三十一日までに行わなければならないものとされた。

なお、町村合併に伴ういわゆる分村問題に関する争論を合理的に解決するため、町村合併調整委員の調停及び知事の請求による一定地域の選挙人の投票の制度を設けることによつて町村合併推進の手段としているのもその特色である。

〔三〕 具体的な町村合併促進の経緯

昭和二十九年一月

鈴鹿郡椿村においては村長、正副議長、議会総務常任委員会委員及び区長等約二〇名をもつて構成する椿村町村合併促進委員会を設置する。同委員会においてはその後県町村合併促進審議会において策定した鈴鹿郡北部四ケ村合併計画の勧奨にもとずきその是非を検討するとともにこの合併計画にもとずいて町村合併の促進を図るべきや否やについても検討を始める。

昭和三十年一月四日

鈴鹿郡深伊沢村役場において、関係四ケ村より各六名宛推薦した委員をもつて構成する四ケ村町村合併促進協議会の会議を開催したが、県議会議員選挙、村長選挙及び村議会議員選挙を同年四月に控へているため種々の意見が続出し、合併の見通しが全く相立たない状況にあつたので右の協議会における町村合併の協議は選挙執行後まで見送りの形となつた。

昭和三十年四月五日

椿村町村合併促進委員会の会議を開催し、町村合併に関する協議を行つたところ椿村は北部五ケ村即ち三重郡水沢村、鈴鹿郡久間田村、深伊沢村、庄内村、椿村の五ケ村合併を念願としてその促進に努力することを決定した。

昭和三十年五月二十六日

椿村においては議会議員の任期満了による一般選挙により議会議員が改選されたのでこれを機に椿村町村合併促進委員会の委員について自然解任する旨の通知を発する。

昭和三十年七月

椿村においては、村長、議会議員及び区長等十九名をもつて構成する椿村合併推進協議会を設置し、同月二十三日同協議会の会議を開催し椿村合併推進協議会規約を制定するとともに鈴鹿郡北部町村合併促進協議会の委員として推薦すべきもの六名を決定した。

なお、町村合併については

(イ) 庄内村、深伊沢村、久間田村、椿村の四ケ村の合併を第一義として四ケ村と話し合いを進める。

(ロ) (イ)の合併ができなければできるところで合併を行う。

(ハ) あくまでも椿村は結束し、分村などの愚をなさないで一本で行うこと。

(ニ) 水沢村との合併の件は四ケ村との話合いの様子によつて協議を進める。

の方針を立てた。

昭和三十年八月二日

深伊沢村役場において鈴鹿郡北部町村合併促進協議会の会議をなしたところ関係村の合併に対する意向は次のとおりであつた。

(イ) 深伊沢村 四ケ村合併を最善として他との合併を考慮しない。

(ロ) 久間田村 四ケ村合併か四日市市合併かについては村民の意向決定しがたい。

(ハ) 椿村 水沢村を入れての五ケ村合併に県の策定計画の変更を要望する。

(ニ) 庄内村 四ケ村合併の早期実現を望む。

昭和三十年八月十日

椿村においては同村の合併推進協議会の会議を開き、八月二日の鈴鹿郡北部町村合併促進協議会の経過報告を行うとともに椿村の方針について更に検討したところ意見は南方派、北方派に分れて対立するに至つた。つまり南方派は若し久間田村が四日市市合併を希望することとなれば庄内村、椿村、深伊沢村の三ケ村で合併すべきだといい、北方派は右の如き三ケ村合併にては村民全体の上に将来の発展性がないから椿村、久間田村、水沢村の三ケ村で合併し、結束して将来四日市市に合併すべきだと主張してその対立するところとなつたが結論的には椿村はあくまでも水沢村を含めた五ケ村案を堅持し、その促進を図ることを決定することとなつた。

昭和三十年十一月十七日

椿村役場に於て鈴鹿郡北部町村合併促進協議会を開催したところ、久間田村は今日迄県の策定案通り四ケ村の合併促進について努力をしたが村民を代表する委員の意向は凡て四日市市に合併を希望し、遂に万場一致の議決をもつて四日市市に合併を申込むこととなり、既に十一月一日その手続を了したから承知する旨の発言があり、庄内村は初めから一貫して県の策定案通り四ケ村の合併を希望したが、今日久間田村が四日市市の方に向うとすれば、残り三ケ村をもつて強力な農村合併に邁進するより他に考慮することはない旨の発言があり、

深伊沢村は庄内村と同じく四ケ村合併を希望したが久間田村が四日市市の方に進むとすれば庄内村と同じく残りの三ケ村をもつて強力な農村を造るより他に方途がない旨の発言があり椿村は始め五ケ村合併を希望しこれを固持したが、既に水沢村が単独で四日市市編入を申し入れ、今又久間田村が四日市市に向うこととなれば椿村の根本方針に大きな相違を生じたため更に椿村合併推進協議会において検討を要することとなつた旨の発言があつた。右の状況の如くその意見調整ができなかつたので右の意見の開披のみにて合議は打ち切られた。

昭和三十年十一月二十一日

椿村合併促進協議会の会議を行い椿村の直面する町村合併について協議することとなり、委員十九名が徹底的に意見をたたかわした結果久間田村、水沢村と共に四日市市に合併を申込まんとする北方派と庄内村、深伊沢村及び椿村の三ケ村合併をせんとする南方派に分れて意見が対立することとなつたので投票によつてこれを決することとなつた。票決は四日市市合併申込に関するもの賛成十五、反対三となり、四日市市編入合併申込に決定するに至つた。

昭和三十年十一月二十三日

椿村臨時村議会を開き、四日市市編入合併に関する第十五号議案を出席議員十名のうち賛成六反対三をもつて原案を可決決定することとなつた。

注 欠席議員 二名は高橋倉吉、今村弥六

かくして同月二十四日四日市市長に対して村長及び議長が編入合併の申入れをするとともに同月二十五日には深伊沢村、庄内村に対して四日市市に編入合併する旨の連絡をし、かつ久間田村、水沢村に対しては椿村と同一歩調で四日市市合併促進方に関する申入れを行つた。しかしながら椿村大字小岐須の小岐須佐内、水越修、川崎(某)同村大字小社の豊田順一、中村忠作、中村吉松、谷口源太郎等よりなる四日市合併反対同盟の名のもとに四日市市長に対して反対陳情を行つた。従つてこの陳情にもとずき椿村村議会は、十二月二十日臨時村議会を開会し小岐須佐内が町村合併に関する議会の議決に対し議員として有るまじき行動を取つたものとして懲罰の議案が提出されたが、種々協議の結果小岐須佐内はさきの四日市市合併の申入れを村長及び議長が万場一致の議決のもとになしたのだと間違つた解釈をして反対陳情を行つたもので全くの誤解にもとずく行動であつたことが判明し、又小岐須佐内は今後断じて軽挙盲動はしないと断言することとなつたので右の懲罰議案は徹回されることがあつた。

昭和三十一年二月四日

〃 三月五日

鈴鹿地方事務所において県町村合併促進審議会委員と鈴鹿郡北部四ケ村町村合併促進協議会の委員との懇談及び各村の町村合併に関する状勢報告等がなされ、更に県審議会委員からは椿村、久間田村の四日市市編入合併については四日市市においてその意思のないことを伝えられるとともに四ケ村合併についての早急な実現が要望された。

昭和三十一年四月十四日

椿村においては村議会全員協議会を開き、水沢村、久間田村の四日市市編入合併の動行調査等のため議員を派遣することに定める。

昭和三十一年四月二十日

四日市市議会においては全員協議会を開催し、四日市市における合併の基本線を打ち出した。つまり水沢村及び久間田村の編入合併は三重郡楠町、朝日町、保々村、竹永村、鵜川原村と同時合併として考慮するが、椿村の編入合併については考慮しないとのことであつた。

昭和三十一年四月二十四日

椿村においては椿村合併促進協議会の会議を開き、各委員より椿村の町村合併の動向を各委員の意見にもとずき発表せしめた後これに検討を加えた結果

(1)  第一案 今一度強力に四日市市に働きかけ、久間田村同様椿村も四日市市の合併基本線に繰入れられるよう努力することを可とする者

(2)  第二案 深伊沢村、庄内村、椿村の三ケ村合併を可とする者

の二者に分れることになつたので、右の二案について記名投票の結果出席委員十六名中第一案に賛成の者十一票、第二案に賛成の者五票となつた。

よつて直ちに村議会の全員協議会を開きその同意をえ二十六日午前八時二十分全議員が四日市市に赴き市長及び市議会議長と面接のうえ懇請することに決定した。

昭和三十一年四月二十六日

四月二四日の村議会全員協議会の決定にもとずき村長及び村議会議員十一名(欠席谷口)が四日市市に赴き懇請した。

昭和三十一年五月十日

椿村合併促進協議会の会議を開き協議の結果、椿村議会並びに各字一致の体制をもつて再度四日市市長に対し、編入合併の申入れをすると同時に四日市市議会議員全員に対して陳情書を提出することを定め、再度合併申込書及び陳情書の案文を決定する。

かくして五月十一日付再度合併申込書及び陳情書をもつて四日市市長及び市議会議員に対して編入合併の懇請をする。

昭和三十一年六月一日

県庁地方課において県審議会委員と関係四ケ村の合併促進協議会委員は各村別に協議を行い、県審議会委員よりは早急に四ケ村合併の実現を要望したが椿村としては水沢村を含む五ケ村合併を九月末の期限内に実現されるよう要望する。

昭和三十一年八月一日

椿村合併促進協議会の会議を開き、水沢村を含む五ケ村合併に目標をおき最後の努力をすることを確認するとともに水沢村、久間田村、深伊沢村、庄内村に対してその協力を求める旨の通知を発する。

昭和三十一年八月六日

椿村において久間田村、水沢村、深伊沢村の村長及び議長、副議長と町村合併についての協議会を開いたところ

久間田村は、久間田村民は四日市市に合併の態勢を以て他の村と此の際合併を希望する。

深伊沢村は現在のところ村民の意向は決定して居らぬが、水沢村が四ケ村合併に入りこむという事は中心が北によるので深伊沢村としては好ましくなく、久間田村及び椿村が四日市市編入を申入れたとき深伊沢村は庄内村と二ケ村合併をなそうとしたが県審議会が待てといつたので待つて居るのであるが早急に合併委員会を開催して態度を決定する。

水沢村は現在は菰野町四ケ村との合併について切迫した情勢にあり、水沢村としては村民は五〇%はやはり四日市市が現在受入態勢がならぬ以上むしろ椿、久間田村と合併し、時期を待つて四日市編入をという意見をもつている。但し水沢村が四ケ村合併に加わることによって四ケ村の何れかの村がこれを好ましくないと考へないか。

等の意見が述べられた。

これに対して椿村はあくまでも五ケ村合併の目標で進むが同調せざる村があればそれはあとまわしとして先づ同調する村があれば一ケ村でも実現していく、なおその結論については八月十五日までに出して実行に着手するとの意見を述べた。

同日夜椿村においては椿村合併促進協議会を開き、庄内村を除いた四ケ村の合併促進を決定した。

昭和三十一年八月十六日

椿村合併促進協議会を開き、町村合併の検討をする。先づ検討協議に入るにさきだち八月一日の決定にもとずき照会した事項についての回答があり、その内容としては久間田村は椿村と同様庄内村を除く四ケ村合併を希望する旨、深伊沢村は庄内村を含め水沢村を除いた四ケ村合併を希望する旨、庄内村は椿村、深伊沢村、庄内村の三ケ村合併を希望する旨であることが報告され、この報告にもとずき協議検討したところ、結局庄内村の意見である鈴峰中学を中心とする庄内村、椿村、深伊沢村の三ケ村合併と久間田村の提案による深伊沢村、椿村、水沢村、久間田村の四ケ村合併促進の二派に分れその是非が論ぜられることとなつたが、記名投票により結論を得執行方針を確立することとなつた。

投票の結果 椿村、久間田村、水沢村、深伊沢村の四ケ村合併賛成 十五票

庄内村、深伊沢村、椿村の三ケ村合併賛成 四票

従つて右四ケ村協力一致の方針をとり先づ久間田村、椿村が合併の母体となり計画の実現に邁進する事となつた。

昭和三十一年八月二十日

椿村長、久間田村長名をもつて深伊沢村長、水沢村長等に対し一応両村が水沢村を含めた四ケ村合併の意向の一致をみたのでその協力方と更にこの合併についての準備のため関係村において町村合併協議会の設立について八月二十一日椿村に於て協議致したい旨通知を発する。

昭和三十一年八月二十一日

椿村において町村合併協議会の設立の件について会合するも深伊沢村、水沢村長等が来席せず、久間田村長及び議長のみ来村する。よつて久間田村と椿村の両村によつて協議を行おうとしたところたまたま来村していた鈴鹿地方事務所長が庄内村、深伊沢村の二ケ村と久間田村、椿村の二ケ村が互に分れて論議を行つていたのでは合併が円滑に進まないので暫定的に庄内村と深伊沢村、久間田村と椿村又は深伊沢村、久間田村、椿村の三ケ村で合併を行い然る後に他村との合併を計画するより他に途がない旨の発言等もあつたので、久間田村長議長及び椿村長、議長、副議長と協議の結果まず二ケ村によつて町村合併の協議を具体的に進めるより他に途もなく、又日限も切迫している折でもあるのでその事務処理方についても早急にこれを行う必要がある旨を認め各村七名の委員を選出してその協議を行うことを定めた。

昭和三十一年八月二十二日

椿村合併促進協議会を開き、町村合併を促進するために法定の町村合併協議会を設置して推進を図ることとしその委員の選衡を行おうとしたところ、再び深伊沢村の意見に同調して鈴峰村を中心とする庄内、深伊沢、椿の三ケ村にて先づ合併を実行する事が必要であるからその協議から進められたいとの小岐須委員の意見が提出されるに際し、椿村の方針は五ケ村案が根本方針であるが、先づ四ケ村案で進み先づ出来る村から合併してゆくという先日の委員会の結論のもとに執行部はその事務を進めているのであるから椿村はあくまでも椿村の方針を堅持して四ケ村に対し門戸を閉ざすことなく先づ出来るところから合併を進めるべきであるとの反対意見も出、更には小岐須委員等の意見は深伊沢村の方針を是として椿村がこれに同調するというものであるが、これは自分等で定めた椿村の方針を自ら放棄してまでも行おうとするもので誠に椿村の方針を無視した意見である旨の発言も生じ、非常な論議がなされるに至つた。

かくして互に対立した意見はその調整がむづかしい状況であり又場合によつては椿村に分裂をきたすが如き形勢もみうけられるので村長はその解決策として真に村民の幸福と一人の犠牲をも出さずに合併を促進するには矢張り椿村の定めた方針において進み、深伊沢村が主張する三ケ村案には共鳴せず、むしろ深伊沢村民の意向を椿村の方針に同調共鳴せしめるよう久間田村の協力をも求めて働きかけるという事にしてはとの意見を提出よつて協議の結果この意見にもとずき八月二十三日に深伊沢村の説得を行うため委員四名を一組とする班を編成することとし、説得の要点は椿村、久間田村、深伊沢村の三ケ村が合併することについては久間田村及び椿村においては既にその決定をみているので深伊沢村さえ加われば、ここに強力な一団ができる。そうして庄内村も水沢村も何時でもこの合併に参加できるよう措置をすることであつた。

なお、八月二十一日二十二日には深伊沢村、庄内村より大字小岐須及び小社等に対して庄内村、深伊沢村及び椿村の三ケ村合併についての誘い込みがなされた。

昭和三十一年八月二十三日

椿村合併促進協議会を開き昨日の決定にもとずき深伊沢村の有力者を訪問し、説得した状況を各委員より報告せしめたところ深伊沢村の方針は投票の結果十二票対七票をもつて決したものであるが、予想に反してこの村の方針と異る意見をもつものが多いことが判明したので、次に久間田村にも働きかけ久間田村からも深伊沢村に対してその促進措置を講ずるよう要請することを決定する。

昭和三十一年八月二十四日

椿村合併促進協議会を開き、昨日の決定にもとずき久間田村に要請した結果つまり久間田村は同村大字鹿間南小松を除いては椿村と意見を同じくし、深伊沢村が両村と歩調をそろえて合併するよう働きかけることに協力する情勢が判明した。尤も南小松と鹿間については四日市市編入を唯一の希望として努力するが、しかし村の方針にまでは反対しないというのが実情であつたので、更に椿村の促進方針について協議することとなつたところ

(イ) 椿村の従来の方針を白紙にもどし、新らしく庄内村、深伊沢村、椿村の三ケ村合併を促進し、かくして椿村外四ケ村合併の構想(久間田村、水沢村を後に含める)に向つて進むこと。

(ロ) 椿村、久間田村、深伊沢村の三ケ村を一先づ合併し、然る後更に庄内村、水沢村の合併に向つて全力をつくし、かねてよりの委員会の既定方針に基いて進むこと。

の二意見の対立を見たが、(イ)の意見を主張せる小岐須佐内外四名の委員が退場することとなつたのであるが協議はそのまま続行され、急速に執行すべき合併方針として次のことを定めた。

椿村、久間田村、深伊沢村、水沢村の四ケ村合併促進の線で既に決定の通り推進することとする。水沢村は目下村内紛糾し、未だ結論に到達していないので、その促進を保留し、差し当り深伊沢村、久間田村、椿村の三ケ村合併を促進する方針に則り推進するが具体的な促進方法は村長に一任する。尚水沢村庄内村に関係する合併のことは期限内に極力合併促進を図ること。

なお、次に協議会委員七名を選任することを議し、その選任を行う。

昭和三十一年八月二十五日

椿村の決定方針を鈴鹿地方事務所に報告するとともに久間田村、深伊沢村に対してもその意思表示と推進の申入れを行うため村長がそれぞれ赴く。

昭和三十一年八月二十七日

深伊沢村長から深第二七四〇号をもつて椿村長宛の通知が発せられた。その内容は深伊沢村は鈴峰中学校を中心とする庄内村、椿村、深伊沢村の町村合併を希望してきたが八月二十五日の深伊沢村合併促進委員会において協議の結果法定期間である九月三十日を目前にひかえている関係もあるので已むを得ず庄内村、深伊沢村の二ケ村合併の実現を期する旨決定をみたということであつた。

昭和三十一年八月三十一日

椿村合併促進協議会を開催したところ八月二十四日の協議会の際途中退場した小岐須佐内等が自己の主張を強調したので再びその対立がみられたが、結局少数派の意見をも考慮に入れて協議したところ少数派の意向は小岐須、小社の地区についての問題でもあるのでその分村を認めるかによつて解決策を講じようということになつたが、それには法定数4/5の数が両部落民にあるかどうかを調査し、それが認められれば分村を承認することとするが、しかし合併方針については既に決定したところによるものとすることになり、その一つの手段として九月一日正午までに分村調印申請を提出せしめ、その内容についても調査し右の判断の資料にすることに決定したが、その申請は九月一日正午までには提出されず九月三日午前十時三十分に提出された。従つてこの申請が指定期限までの提出ではなかつたのでこれを不承認とした。

同日椿村は臨時村議会を開き、町村合併促進協議会の設置、竝びに同協議会委員選任の議案を審議原案どおり可決する。

昭和三十一年九月三日

椿村大字小社の分村請願及び小岐須の分村届が提出され又深伊沢村に対しても小社の分村して深伊沢村、庄内村による合併区域に境界変更する申入れが九月一日付をもつてなされ、小岐須にかかる同様の申入れについては九月二日付をもつてそれぞれその区の代表者から行われた。

ところで深伊沢村、庄内村においては右の申入れを協議したところその申入れを受諾することとし、椿村長に対してその旨の通知があつた。

昭和三十一年九月四日

椿村においては臨時村議会を開会し、小岐須分村届及び小社分村請願の採択並びに承認に関する事案の審議をすることになつたが、要は椿村合併促進協議会の決定に対して同地区がこれを履行しなかつたこと等の事情もあり多数の賛成をもつて不採択に決した。

昭和三十一年九月五日

久間田村、椿村合併促進協議会の会議を開き、町村合併に関する協定事項を協議決定する。

昭和三十一年九月六日

椿村定例村議会を開会し、村の廃置分合にかかる議案第三十八号等町村合併にかかる諸議案を審議し、出席議員八名原案に賛成の意志表示をしたるをもつて原案通り可決決定する。

小岐須佐内、今村弥六、谷口源七の三議員は村議会に欠席して同人等が主催者となつて小岐須、小社地区における村民大会(二〇〇名位)を開き自己の主張する鈴峰中学を中心とする庄内村、深伊沢村及び椿村の三ケ村合併を推進すべく議するとともに久間田村、椿村の二ケ村合併に反対せしめるごとき方策を進めた。

昭和三十一年九月六日

久間田村定例議会を開会し、村の廃置分合にかかる関係議案を審議し、出席議員七名全員の賛成により原案通り可決決定する。

昭和三十一年九月十日

久間田村長及び椿村長から知事に対して地方自治法第七条の規定にもとずき村の廃置分合についての申請をする。

昭和三十一年九月十二日

久間田村において椿村と合併して三鈴村となる前に同村大字鹿間、南小松(四日市編入希望区域)の住民が「四日市市への分村合併を認めよ」と村の各種団体を脱退し、地区住民総動員してデモ行進を行つた。

昭和三十一年九月二十六日

久間田村、椿村の廃置分合について三重県議会は原案通り可決決定する。

昭和三十一年九月二十七日

知事は九月三十日から久間田村、椿村を廃し、その区域をもつて三鈴村を置くことについての処分を行う。

昭和三十一年九月三十日

内閣総理大臣は、総理府告示第六百五十二号をもつて三鈴村設置の公示をする。

昭和三十一年十月十六日

旧久間田村大字鹿間及び南小松の区域に居住する住民はその区域の小学校児童を同盟休校させることによつて四日市市編入合併の手段に具した。

昭和三十一年十月二十日

三鈴村臨時村議会を開会し、安阪吉男、近藤末男、片山国光、谷口源七、今村弥六、小岐須佐内の六議員より提出した「三鈴村成立にともなう一部地区住民の分村要求に対する処置を乞う」旨の議案を審議したが、否決されるところとなつた。

昭和三十一年十一月三十日

三鈴村においては村議会全員協議会を開き、町村合併に関する事項を審議した結果次の通りその方針を決定した。

(イ) 三鈴村としては三鈴、鈴峰二ケ村の合併は不可能と確信するので将来四日市市への合併を目途として三鈴村の育成に一路邁進する。(出席者二十名中賛成十七名反対二名)

(ロ) 南小松、鹿間両地区の分村問題に関しては可及的速かに善処する。

但し、本案に対する村の議決については十二月の四日市市議会定例会に上程し得るように努力するも事情止むを得ない場合においても一月三十一日の議員の任期満了までには必ず解決する。(全員賛成)

昭和三十一年十二月十四日

~十二月十九日

三鈴村大字鹿間及び南小松の区域に居住する住民は、その区域内の小学校児童を同盟休校させた。

昭和三十一年十二月十九日

三鈴村臨時村議会を開会し、三鈴村大字鹿間及び南小松の四日市市への編入合併の申し入れに関する議案第三十八号を審議し原案通り可決決定した。

よつて三鈴村は同村大字鹿間及び南小松の四日市市編入について正式にその申入れを行う。

昭和三十二年一月九日

三鈴村においては村議会全員協議会を開き、三鈴村にかかる町村合併について協議を重ね次の如き事項を決定した。

一、三鈴村大字鹿間及び南小松の区域を除く全区域を鈴鹿市に編入することを申入れるものとする。

二、三鈴村、鈴峰村同時に鈴鹿市への編入合併実現を切望する。

なお、この決定は出席議員全員の賛成によつてなされたものである。

又右の決定にもとずき村長及び議長は県にその陳情をする一方鈴鹿市にもその促進方を申し入れた。

ところが、右の決定に対し、これを好ましくないと思料している大字和無田、大字大野の野田の一部住民が鈴鹿市編入よりも分村して四日市市編入の主張を行い又大字小岐須、小社、山本の一部の住民が鈴峰村編入の主張を行い、県、県審議会及び四日市市等に陳情合戦が行われ始めた。

昭和三十二年一月十三日

三鈴村臨時村議会を開会し、鈴鹿市への編入合併申入れに関する議案第一号を審議し、原案通り可決決定した。

よつて村長は、三鈴村(四日市市編入を希望する一部の地域を除く)の鈴鹿市編入合併について正式の申入れを行つた。

昭和三十二年一月中旬

県及び県審議会(県新市町村建設促進審議会)においては新市町村建設促進法第二十八条第一項の規定によつて未合併町村の合併計画について知事から勧告を発せられることとなつていることにともない四日市市及び鈴鹿市の周辺町村に対する合併の取扱方針を調査していたが、四日市市長よりは一月二十三日庶第四六号をもつて鈴鹿郡三鈴村の南小松、鹿間、和無田、野田の区域にかかる境界変更による四日市市編入については三鈴村当局が正式の議決を経て分村を申入れるならば受諾する(鹿間、南小松については三鈴村より昭和三十一年十二月十九日附をもつて正式に分村合併を申入済)との回答に接し、又鈴鹿市長よりは、一月三十一日附鈴総第三五号をもつて(イ)さきに合併の申入れを受けた三鈴村を編入することについては何等異存はない。(ロ)その他合併を希望する村又はその一部の地域についてもこれを受け入れる旨の回答に接したので、審議会は担当委員四名を選任し、現地調査及び実情調査を行わしめることとした。

昭和三十二年二月七日・八日

三鈴村においては、一月十三日の議会においてなされた鈴鹿市への合併申入議決を村議会改選後の新分野において四日市市を希望する地区の議員と農村ブロツク(鈴峰村編入を希望するもの)を主張する議員が相図り取消さんとしている動向が鈴鹿市編入を希望する地区の住民に察知されたため、七日に開会が予定されていた臨時議会は右鈴鹿市編入希望の地区住民が議場をとりまき四日市市派及び農村ブロツク派の議員が議場に入ることを阻止したので終に流会とされた。そこで議場に入ることができなかつた四日市派及び鈴峰派の議員は役場の近くにある私人宅に入り法定の手続も了しないで二月八日議会を開会するとして議長、副議長の選任及び常任委員会委員の選任を了し、鈴鹿市編入の議決を白紙にもどす如く相談をしたが、これ等二月八日に行われた事項はすべて効力がないという自治庁の公式な見解もあり、村長はその次第を村民に周知せしめることとした。

昭和三十二年二月九日

県審議会においては第七回の審議会を開き、次の如く三鈴村の合併方針を審議の結果内定し、関係者に通知した。

一、三鈴村と鈴峰村の完全合併は不可能であるものと認める。

二、三鈴村の一部と鈴峰村の大部分とは合体して適正規模の農村建設を期待するものであるが、このことについては今後の住民の動向により決定する。

三、三鈴村の中

(イ) 南小松、鹿間、大野の野田は四日市市への編入を認める。

(ロ) 和無田、山本については住民の意思を更に調査の上決定する。

(ハ) 下大久保、岸田、大野の大久保、一宮は鈴鹿市への編入を認める。

昭和三十二年二月十日

三鈴村議会議員は四日市市において懇談会を開き、種々懇談の結果

一、南小松、鹿間については次の議会で四日市市編入を再確認すること。

二、野田、和無田については次の議会で四日市市編入を議決すること。

三、小社については次の議会で鈴峰村編入を議決すること。

の申合せを行い、更に議員等で構成する合併調査委員会をつくり、その審議をすることとした。

昭和三十二年二月十九日

県審議会においては、二月十九日の審議会で三鈴村、鈴峰村の合併問題措置方針を審議の結果次の通り決定のうえ知事に答申するとともに関係村に通知された。

三鈴村、鈴峰村の合併問題措置方針

鈴峰村を中核とする人口八千以上の新村はできる可能性がないものと認める。

従つて

(1)  三鈴村のうち南小松、鹿間、和無田、大野のうち野田は四日市市へ、その他の地区及び鈴峰村のうち深溝、三畑については鈴鹿市へ編入するよう勧告せられたい。

(2)  鈴峰村のうち深溝、三畑を除くその他の地区については夫々の編入せられる方向を二月末日迄に自主的に決定するものとする。

なお右期限迄に決定しないときは県審議会において答申案を決定する。

昭和三十二年三月四日

県審議会においては、更に三鈴村、鈴峰村の町村合併について審議し、最終的な結果を次の通り知事に答申することとなつた。

三鈴村、鈴峰村両村合併問題については左記の通り答申するものとする。

一、三鈴村

大字南小松、鹿間、和無田、大野のうち野田は四日市市へ、その他の地域は鈴鹿市へ編入する。但し大字小社、小岐須、山本については大部分又は一部分において鈴峰村編入を希望するものがあるので町村合併調整委員の調停に付する。

二、鈴峰村を中核とする人口八千以上の新村を建設することは希望するところであるが、現況においてはこれが実現の見とおしが不明確であるので、これが実現不可能の場合においても新市町村建設促進法の適用を受けしめるため一応鈴峰村全村を鈴鹿市に編入勧告をするとともに併せて次の取扱をなすものとする。

(1)  鈴峰村の中、大字深溝、三畑及び長沢、伊船の一部地域の中鈴鹿市編入を希望するものについては町村合併調整委員の調停に附する。

(2)  第一項但し書及び第二項(1) の措置の結果人口八千以上の新村が設置せられる場合は鈴峰村の鈴鹿市編入勧告による合併はこれを促進しないものとし、人口八千以上の新村が設置せられない場合は右勧告の線に沿い合併を促進するものとする。

昭和三十二年三月十二日

三鈴村臨時村議会を開会し、会期を三日間とし、先ず議長、副議長の選挙を行い、次いで町村合併を前提とする村の区域内の字の区域を新たに画することについての議案を審議し、原案通り可決決定する。

昭和三十二年三月十三日

内閣総理大臣との協議を経たので知事は次の通り町村合併計画を関係市村に勧告した。

三鈴村大字南小松、鹿間、和無田、野田と四日市市との合併

三鈴村大字下大久保、岸田、山本、小岐須、小社、大野と鈴鹿市との合併

昭和三十二年三月十四日

臨時村議会(三鈴村)の会議を開き、知事勧告にもとずく町村合併の議案を投票の結果賛成十五票、反対五票をもつて原案通り可決決定する。

昭和三十二年三月十九日

関係市村より地方自治法第七条の規定にもとずき知事に申請がなされる。

昭和三十二年三月二十五日

三重県議会定例会においては原案通り市村の廃置分合に関する議案を可決決定する。

昭和三十二年三月二十七日

知事は地方自治法第七条の規定にもとずき四月十五日から三鈴村を四日市市及び鈴鹿市に編入する処分を行う。

昭和三十二年三月三十日

内閣総理大臣は地方自治法第七条の規定にもとずき官報公示をする。

昭和三十二年三月十三日

三鈴村大字小社、小岐須、山本については大部分又は一部において鈴峰村編入を希望するものがあるので新市町村建設促進法第二十七条第一項の規定にもとずき知事は町村合併調停委員に藤井八郎、大橋美生、喜田喜太郎の三氏を任命しその調停に付することとした。町村合併調整委員においては三月二十二日、四月十六日及び四月十七日の三回にわたり関係市町村、議長及び住民の代表者等から実情調査をする一方実地調査等も行いその結果更に住民の意思を十分に把握する必要があることを認めた。

昭和三十二年四月十七日

よつて新市町村建設促進法第二十七条第二項において準用する同法第二十六条第三項の規定により住民投票によつてこれを決する旨の調停案を作成し、関係市村に勧告した。

昭和三十二年四月二十二日

関係市村は右の調停案を受諾することとなり、その旨の書類が四月二十三日知事に提出されたので法第二十七条第二項において準用する同法第二十六条第四項の規定により調停は成立する。

昭和三十二年四月二十三日

知事は新市町村建設促進法第二十七条第四項の規定にもとずき投票請求を行う。

昭和三十二年五月五日

投票を執行

昭和三十二年五月六日

鈴鹿市選管から投票の結果の届出が知事になされたので新市町村建設促進法第二十七条第十項の規定により地方自治法第七条第一項の規定による関係市村の申請に代る効果が生じた。

昭和三十二年六月五日

知事は右の住民投票の効力に関する争訟が小岐須の住民投票に関して提起されていたので、その処分については一時保留していたのであるが、五月三十一日鈴鹿市選管がこれを棄却したことにともない小岐須の区域を鈴峰村に編入する境界変更の議案を六月一日に追加提出の議案として提出した。

よつて県議会においては六月五日原案通り可決決定をみた。

昭和三十二年六月六日

知事は地方自治法第七条第一項の規定により六月十五日から小岐須の区域を鈴峰村に編入する処分を行つた。

昭和三十二年六月十五日

内閣総理大臣は地方自治法第七条第六項の規定により官報公示をする。

本件住民投票にいたるまでの合併問題の実情、経緯が仮に原告主張のとおりだとしても(そうだとすれば住民投票などにもちこまれなかつた筈であるが、)一旦住民投票に附することに決まつた以上(原告等は住民投票に附することについては何ら異議はなかつたことが認められる)は憲法並に前掲諸法令の規定に従つて、特に民主主義の常識である公明選挙の理念を体して運動、投票のルールを遵守しなければならないことは勿論である。

合併のいきさつが、又住民投票にもちこまれた動機等がたとえ自分らの気に喰わないからといつて法律に基いて執行される住民投票を、法律を無視して勝手放題なことをしてもよいという理論はぜつたい許されない。

原告等の過誤の原因の主要なる部分はこうした誤まつた考えかたから出発していることは既に指摘したとおりである。

一七、本件投票無効事由

(甲) 本件裁決理由は裁決書記載のとおり、小岐須地区全般にわたり組織的に住民投票に対する不法な運動、干渉、妨害等が行われ、投票人の自由意思に基く投票が著しく抑圧せられ、又は公職選挙法の理念とする投票の自由、公正及び投票の秘密に対する保障が侵害せられそのため投票の結果に異動を及ぼす恐れありと認められたからである。

而して準拠する法律の適条は新市町村建設促進法施行令第十五条により準用される公職選挙法第二百五条第一項である。尚公職選挙法第二百五条第一項にいわゆる「選挙の規定に違反することがあるとき」とはただに選挙が管理執行に関する規定に違反する場合に限らず、前記の如き場合をも含むことは判例の認めるところである。

しかし本件事案のうち、投票所内(就中記載台の正面)にいわゆる賛成派のビラ、ポスター、莚旗等が多数掲示されたままの状況下において投票が行われたという事実は投票の公正を確保しようとする公職選挙法の精神(同法第一条参照)に違反すると共に、他面投票の管理執行の手続に関する重大問題であつて、この一事のみでも本件投票を無効としなければならない。(全国区参議院議員選挙において、或る投票所で一候補者の所属党名が誤記されていたことにより当該投票区の投票を無効として選挙の一部無効を言渡した最高裁判決あり)

(乙) 本件裁決書記載以外に次の事項を裁決理由として補充する。

(一) 小岐須地区では昭和三十一年九月頃分村(境界変更)賛否に関し住民の署名簿を作成しており、又昭和三十二年一月十三日村(旧三鈴村)議会において鈴鹿市合併申入れの決議をしたが原告らは右決議に反対しこれを取消そうとして、その后数ケ月の長きにわたつて反対運動を展開した。而して南条組における「御掟」及び誓約書の作成はこのような状況のもとに原告らがその反対者(鈴鹿市合併派)を抑圧する目的でなされ、ひいては本件住民投票に備えたものである。

このことは右「御掟」が作られた三日后の本年二月十九日に原告らが鈴鹿市合併反対署名簿を調製してこれを県当局に提出している事実によつて明白である。尚右署名簿の署名は「御掟」の前でなされたとのことである。

(二) 鈴鹿市合併に反対する原告らは区長、組頭等の地位、権限を利用し又はその組織を通じて非民主的な方法で区の「総意」「方針」なるものを作り上げこの作られた「総意」「方針」に従わないものを裏切者として制裁を科し、圧迫した。

(三) 登里組においても南条組と同様の目的で同趣旨の「掟」なるものが作成せられ、利用せられた。

(四) 本件投票の告示后、投票日までに計画し着手された鈴鹿市合併派の演説会は原告らの属するいわゆる賛成派の妨害により開催できなかつたばかりでなく、部落に出入することもできなかつた。

尚同様のことはいわゆる反対派の側にもあつたということである。

(五) 投票日の前日投票の管理執行及び公明選挙の啓発宣伝に当る鈴鹿市選挙管理委員会の職員がその職務のために当該地区に入ろうとしたときさえ種々の妨害を受けた。

(六) 投票当日、投票所出口附近において住民多数が集結、代理投票の披見を要求して喧騒を極めた。そのため投票を十数分間中止して鎮圧に努めた結果漸くにして投票を行うことができた。

(七) 更に次のような組織的、集団的、計画的、広範囲な違反行為が行われたことを確認又は推測することができる(これらの行為は何れも前掲公職選挙法の準用により法律違反とされるものばかりである。)

1 選挙権を有しない者の運動、原告等賛成派が、必勝祈願、他組の同志応援のためのデモ、集会所等に集合して気勢を張つた等の際に選挙権を有しない筈の未成年者(子供)が多数参加していたことが窺われる。

2 戸別訪問

3 署名運動

4 飲食物の提供

5 気勢を張る行為

6 連呼行為

7 選挙運動放送の制限違反

8 匿名寄附禁止違反

(丙) 原告等はしばしば裁決理由摘示の如き組織的、集団的、計画的、広範囲な違法行為を仮に原告等賛成派がなしたとしても、それは賛成派だけではなく、反対派の方も同様又はむしろ賛成派以上のことをやつているのに賛成派のみを非難するのは片手落ちだと抗弁するようであるが、それならそれで尚更本件住民投票は泥沼に埋没したことになり無効の度合いは一層強いものになるのみであつて、被告の裁決理由を補強こそすれ決して弱化せしめるものではない。

しかし何といつても賛成派の領袖は区及び組を牛耳る実力者によつて占められていた関係上、区及び組の財産である山林の処分、管理権、利益配当についての権限を事実上掌握したところから、そのやりかたも、徹底し各人の投票に対する影響力は反対派とは比較にならないほど強力であつたことは首肯できるのであつて、反対派買収のために現金授受等よりも有効決定的な効果を期待することができたものといえよう。

何れにしても被告委員会は、憲法及び前掲諸法令の規定精神に則り厳正公平に事案全体を観察し、各委員の良心に従つて確信をもつて裁決をしたのであるから、司法審査はもとより、社会のいかなる批判にも堪えることのできるものと信ずる。

第三、原告等訴訟代理人は再答弁として次の通り述べた。

一、被告は当初よりしきりに公明選挙の理念を主張するが、本件に於て問題となつているのは、選挙ではなくして、住民投票である。

被告がこの選挙と住民投票との区別を混同していることが本件の誤まれる裁決をなした最大の原因である。言う迄もなく選挙とは或る議員を多数人の中より選ぶ場合その多数の候補者の中より、その主張主張を聞き自己が是なりと信ずる候補者に投票して自己の代理として或る特定の議員を選び出すことであり、住民投票とは或る法定の事項に付、その地区の住民が直接に、その賛否の態度を表明することであり、その本質は全く異るものである。

両者の性質内容は右の如く全く異るが、その手段方法が投票という形式を採る点に於て唯一の類似点があるのみである。その故に住民投票に付ては公職選挙法の投票の規定を主として準用して居るのである。

この点に付被告は、前記一六に於て、初めてその観念の異なることを明かにしたが、それとても只それ丈に止まりその根本に於ては公明選挙の理念による判断しかしていない。

本件について云へば住民投票は農村ブロツクか否か、鈴鹿市より分離して鈴峰村に合併するか否か、――賛成か反対か――の二者択一の関係の意思の表明、態度の決定である。

従つてその事柄の内容は選挙と異なり、数百年の歴史と伝統を持つ父祖の土地か、田畑か、邸宅山林か、又墳墓が他の異つた歴史や伝統、風俗人情の地区と合併して、その地区在住の住民と生活を共同にするか否かの選択である。住民の感情と血縁の問題が大いなる要素となり、利害打算は第二義的となる。又自己個人のみの問題ではなく、子孫にも又重大なる影響があり、自己のみならず、歴史、伝統風俗人情を同じくする近隣全体の問題として共同の関係を持つことになり、その意味に於て自己の代表としての議員を選出する選挙とは大いに異るものがある。

従つて選挙に於ては、その利害も間接的であり、その関心も比較的薄く、買収情実、饗応接待等が行はれ易いが、住民投票に於てはそれが直接我が身に即刻降りかかる問題であり、その関心は真剣とならざるを得ない。

父母、兄弟、親戚、知己、友人等日頃生活を同じくしている者同志の相通ずるものが多分に存し、一旦志を同じくし一致団結すれば、その結合は血縁的の強さとなり、組織化され、苦楽を共にすることとなり、選挙の際の政党結社的結合とはその撰を異にするに至るのである。

この同志的結合団結がよく堅く、又その範囲がますます大となり、一方的に大勢を制した場合、その反対側の小数派は多数派に対し或は威圧を感じ或は自ら卑屈となり、多数派の正当なる言動等に付ても少数のひがみ、劣等感等より或は干渉、或は強要と感ずることのあることは間々あることである。併しそれは強要でもなければ、干渉でもなく少数派のひがみにすぎない。

本件について、選挙の理念によつて判断出来ぬ点であり、又この点が被告の裁決に於て最も大なる過誤であつた。

原告が本件に於て住民投票に至る迄の合併問題の経過を重視するのも、昭和二十八年十月一日市町村合併促進法が実施されて以来、小岐須地区椿村の住民は三重県の策定案である四ケ村合併に対し如何なる態度を取つて来たか、又それが本来住民自体の問題であるに対し、本件の異議申立人、訴願人である椿村村会議長であつた高野謙治郎が住民の、村民の意向を無視して、如何に反対的な行動に出たか、又之に対し地区住民は如何に抗争したかを明かにして、本件の真相を明確にする為であつた。

かく見るときはこの純真なる同志的血縁的結合団結が反対派より買収、暴力等により侵害される時、益々その結合団結を強固にして、その防衛的方策をとることは蓋し当然のことである。従つて同志相集つて、その団結を再確認して結束を固め、或は団体行動を取つて必勝祈願をなしても、又一堂に会して互に情報を持寄りその交換をなすも何等差支へなき当然のことであり、之を目して強要強制、監禁というが如きは論外である。

又被告が訴願の裁決に於て投票を無効とした最大の唯一の理由とした投票の文字の点に付ても如何に同文字の投票ありとするも、それが何等強制強要に基かず、同志相諮り、自発的にかかる申合による行為に仮りに出たとしても、それは何等処すべき筋合ではない。要は昭和二十八年十月より実施せられた市町村合併問題に付、その全過程、全経過に照らして、果して本件賛成派に、かかる強要、強制、監禁を必要とする状態にあつたかどうかにかかつているのである。

被告の見方の如くであるとせば、選挙に於ける推薦の如き殊に全町一致推薦の如きは強要による強制の投票で無効なりと断ぜざるを得ないこととなる。

ここに少数派の訴願人高野謙治郎一派の供述のみを、又偽造の疑十分なる早川峰子等八名の陳述書を何等取調べもせず、又書類の形式的な審査もせず、同一用紙同一筆同一筆蹟の署名のある陳述書を鵜呑みにして少数派のひがみと被害妄想による陳述を全て正しきものと誤認した原因がある。

又昭和三十一年九月三十日小岐須区の総会に於て正式の区総会の決議により決定された合併問題に付ての区の実行委員、推進委員等を「賛成派の有志をもつて合併実行委員会なるものを組織していた」(裁決書の裁決理由参照)と恰も原告等が擅に作つた組織であるかの如き誤認に誤つた原因もここにある。

住民投票の本質を十分認識して本件の判断をなす必要な所以である。

二、本件訴願の審査は杜撰極まるもので、何時、何人を、取調べたるや、その審査の具体的内容すら明かでない。

訴願に付てはその審査の方式は法に定められていないが事柄の性質上、訴願も一つの行政に於ける争訟であり、その審査も争訟の処理とその根本精神を一つにするものである。

従つて行政訴訟に於ても民事訴訟の審理の規定が準用されて居り、その精神の根本に於て同一であるべきである。双方の意見、を公平な立場に於て、正しき手続で取調べ、十分検討すべきことは勿論である。

本件審査の過程に於て被告に対し訴願に関する書類の提出を求めたところ、かかる手続が如何に行はれたりやを証する書類もないとのことであつた。かかることで果して本件訴願が公正に適確に行はれたりや否や頗る疑はしいと言はざるを得ない。

只裁決書の理由等より、訴願人本人、高野忠一、若林春一、高野丹治の供述とある所より同人等を取調べたことは窺はれるが、何時呼出したりや、又如何なる供述がなされたりやは一切不明である。以上四人の内高野丹治、高野忠一の両名は本件住民投票に於て買収犯として有罪の判決を受けたのであるが、この両名の供述も有力な証拠となされているようである。果してかかる買収犯人の供述を証拠としてよいものであろうか、頗る疑問である。

しかも右の外早川峰子外七名の陳述書も亦之を認定の証拠としている。この早川峰子外七名の陳述書は当審に於て関係者は始めて知つたのであるが、その陳述書は同一用紙同一筆蹟でカーボン紙の複写となつて居り、而もその署名も同一の筆蹟でカーボンでなされている。一見して偽造なることが明かでかかる陳述書を早川峰子等八名を顔も見ず話も聞かず何人が提出したりやも不明のものを取つて以つて証拠とするに至つては杜撰も極まれりというべきである。

その后証人として、漸く取調べの結果、偽造ならざる如く又偽造であるかの如く不得要領のものとなつたが、その程度に於て被告は僅かに面目を保つているにすぎない。

少くとも之等の陳述書が陳述人の不知の間に高野丹治によつて無断で被告選挙管理委員会に提出せられたことは間違いない事実である。而も日時は八月三日四日である。裁決書の作成の一日、二日前である。殊に昭和三十二年八月四日は日曜日に該当するが当日休日である県庁へ如何にして提出せられ、如何にして判断の資料に供されたか、裁決書は八月五日付にて成立しているのである。誠に怪奇極まることである。

之に反し原告側の賛成派の者は柴田源七、徳田清、永井甫、今村謙作、神野亨が同年七月二十七日午后一時より一括して呼出を受け取調べを受けた。而もその調査たるや柴田源七が約一時間、以外の徳田清以下四名は一同揃つて同時に、十把一からげに、約一時間半の取調を受けたのみである。而もその供述は措信せずという判断である。

かくて唯一つの投票用紙の分類による同一文字の投票が多かつたという事実のみにて、右は強要によると認定して、昭和二十八年十月以降の小岐須区の区民の総意である血のにじむ郷土愛の結晶の有効投票三七二票中の2/3以上である賛成二五八票を無効としたのである。

何たる杜撰な、軽々しき処理、審査であろう。

かかる処理審査で、何人がよく承服しようか。

この外形のみにも明かにこの裁決の不当であり、誤つていることが明かである。

「農村は農村で村造り」とのスローガンの下に結集して、住民の総意を無視する村会議長高野謙治郎の独走のため、椿村より三鈴村に、三鈴村より分村して一は四日市市へ他は鈴鹿市へ小岐須、小社、山本地区は住民投票を条件として転々分裂して行つた。正に町村合併の最大の悲劇である。

三、被告は又原告が本件の原告等が所轄亀山警察署三重県刑事部捜査第二課及び津地方検察庁の取調べの結果何れも犯罪の嫌疑なしの裁定処分を受けたことに付之を援用したところ、之に対し行政事件は刑事事件と異り行政事件に於ては「……自由、公正を侵害した行為が犯罪の構成するまでにいたらなくとも、之が原因して結果的には自由公正が確保出来ず引いて選挙の結果に異動を及ぼすことが推認されればよい」と主張しているが、暴論であり、裁決の理由と矛盾している。

裁決の無効の原因は裁判書にある如く『「賛成投票の強要」「強制」と明記している反対派に、登里組に於ては反対の投票をした者は組の財産分与をせずと脅迫して賛成投票を強要し、又南条組に於ても御掟を作り之に違反せぬ旨の確約書に署名捺印せしめて有権者全員に賛成投票を強制した』と認定し、明かに、刑法に所謂財産生命身体自由等に害を加うべきことを通告して義務なきことを行はしめたものに該当し同時に公職選挙法の自由妨害者に正しく該当することになるが、「犯罪を構成するまでには至らない……」とは如何なる関係になるのであろう。裁決書では強要したと断定し、当審では強要の程度に至らなくても可とするのであろうか甚しい矛盾であり、暴論である。

その他投票の無効を理由あらしめるため、投票所に於て代理投票のやり方に付、その方法の適正、正確を期するため選挙事務担当者にその旨の申出をなし、係官に於て法令を調査する間を捉えて選挙事務を妨害して不隠の行動に出でて騒いだとか、或はポスター、むしろ旗等が投票所の付近に、貼つてあつたことを捉へて投票の無効の理由にせんとしているが、前者の場合が投票の無効原因となる程度のものでないことは自明の理であり、又後者も合併問題に付農村ブロツクか否かの二者択一の問題は数年前より地区住民により論議研究され尽して居り、賛成のポスターを見て反対派が賛成になる虞も殆んど皆無の実状にあり、而も選挙が定員を遙か上廻る候補者がその当選を競い、義理人情により心動くのとはその選を異にし、数年前より論議し尽された事項に付ての二者択一であるから勿論無効の原因とは如何にしても成り得ない。選挙の場合に於ても投票所の入口に候補者の氏名の一覧表を選管自体が有権者の便を図り氏名を麗々しく掲示しているではないか。被告の論法を以つてせば、現に被告選管の管内の選挙は全て無効となる筋合いである。

被告が自己の裁決の無効を維持せんが為の牽強付会にすぎない。

四、又被告は永井甫の検事より峻烈なる取調を受けたことに付、右は被告の主張の裏付けなりと主張反論しているが、検事がかかる峻烈なる取調をなしたのは、被告の裁決書に御掟に強要署名せしめ、賛成投票をした、或は有権者を一ケ所に集めて監禁したり(自由を束縛した)とか、犯罪事実を明かに認定した裁決書を号外として発行して居り、検事はこの被告選挙管理委員会の認定は正しきものとの信頼の下に、かかる事実なしという永井甫を虚偽の否認をするとの見解にて峻烈な取調をなしたにすぎない。

結局取調の結果、かかる事実ありたりとの嫌疑なしとの結論に達したもので、被告の認定と反対の結論に到達し、却つて被告選管が被害者なりとして法の保護をなした反対派より高野丹治同忠一の二名の金銭買収事件が発覚し又婦人会の増田外八名の容疑事実(嫌疑なし)中村芳一の投票日前日の暴行事件(起訴猶予)が発覚している。皮肉といはざるを得ない。

五、原告等小岐須区民は年来の願望であつた農村造りを鈴峰村と合併することにより漸くその目的を達したが、間もなく被告委員会の投票無効の裁決により現在迄再び不安の年月を送つている。

片々たる理論、漠然たる推測により事実の真相を確めることなく、小岐須区民の2/3を上廻る三七二票中の二五八票の投票人の真剣なる投票を無効と判定することは、余りに軽卒であり、余りに不当である。

第四、被告は再々答弁として次の通り述べた。

一、原告の再答弁一の主張に対して

(一) 原告は、しきりに一般選挙と住民投票とは、その本質がちがうといつてあたかも公明選挙の理念が、住民投票には無縁なもの換言すれば住民投票は公明でなくてもよいというような主張をくりかえしているが、住民投票に対する原告のこのような観念が本件の如き不公明極まる問題を惹起した根本原因であることを端的に物語つているものといえる。

原告は一般選挙と住民投票とはその本質が全く異るものであると論断しているが、これは重大且つ許すべからざる誤謬であることは戦後わが国に完全な民主主義が導入せられて十有六年を経過した今日ではもはや国民の常識である。すなわち民主主義は個人の尊厳を第一義とし、法の下に完全に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されないことを建前とするものであり、このことは投票という形で自分の意思を表明する選挙、住民投票において最もよく現われるところであり、憲法その他の法令により最大限に担保されているところである(憲法第十四条、第十五条、第四十四条、公職選挙法第一条、第六条、第七条及び第十三章、第十六章、新市町村建設促進法第二十七条等)。

選挙といい、投票というも、その本質は、右の如く個人が何ものにもとらわれず、自分の自由な決意により、その意思を自由に表明しうること、そのために投票の秘密はこれを犯してはならない。投票者はその選択に関し、公的にも私的にも責任を問われない(憲法第十五条、公職選挙法第一条、第十三章、第十六章、新市町村建設促進法第二十七条等)。ことは、両者全く同一であつて何ら差異あるべきではない。原告の主張することは、選択の対象を異にするのみにすぎない。投票により何を選択するかの選択の対象が前者においては公職の候補者であり、後者においては何れの市町村に所属するかの違いだけで民主主義の要件たる自由な投票の本質には何ら変りはないのであるから、自由な投票のための至上命令である公明選挙の理念にはもとより逕庭のある筈はなく、むしろ住民投票においては原告が主張しているような一般選挙にはみられない歴史的社会的な問題が随伴していることから、いざ住民投票となつた場合における公明選挙(投票)の要請は、一般選挙の場合よりも一層強いといわねばならない。

(二) 以上の理由により住民投票に関する新市町村建設促進法第二十七条においては、投票の公正(公明選挙の理念)を確保するために必要な措置として公職選挙法の規定のうち次ぎの事項についてはすべて同法の規定を準用し、もつて投票の公正を期しており、この理念、規定に違反して投票の公正を確保維持できなかつた投票の無効であることはこれまた当然の理である。

1 特定の者の選挙運動の禁止の規定

選挙事務関係者(一三五)、特定公務員(一三六)、教育者の地位利用(一三七)未成年者(一三七の二)選挙権及び被選挙権を有しない者(一三七の三)

2 特に弊害の多い運動方法の禁止の規定

戸別訪問(一三八条)署名運動(一三八の二)人気投票の公表(一三八の三)、飲食物の提供(一三九本文)、気勢を張る行為(一四〇)、連呼行為(一四〇の二)夜間の街頭演説(一六四の六)

3 その他特に投票の公正を確保するために必要な規定、新聞紙、雑誌の報道及び評論の自由(一四八I)、新聞紙、雑誌の不法利用等の制限(一四八の二)、選挙放送の公正確保(一五一の三)、選挙運動放送の制限(一五一の四)特定の建物及び施設における演説の禁止(一六六本文)匿名の寄附の禁止(二〇一I、II)

4 住民投票に関する争訟については、公職選挙法第十五章(争訟)の規定中、性質上準用することのできない部分(選挙の一部無効、総括主宰者及び出納責任者の選挙犯罪による当選無効等)を除き、すべて準用されている。

5 罰則については、公職選挙法第十六章の規定中公職の候補者若しくは当選人、選挙運動費用等に関する罰則の規定その他本件住民投票について運動の規制の行われていない行為に対する罰則の規定を除きすべて準用されているのである。

(三) 右の如く本件住民投票に対する法的規制の体系からみても公明選挙が要請されていることはまことに明かである。しかるに原告は、被告のなした本件裁決は「公明選挙の理念による判断しかしておらない」といつているのは明かに逆恨みというべきであるのみならず、ここでみのがすことのできないところは、原告及びそれに属するいわゆる賛成派の幹部が本件住民投票は公明選挙でやらなくてもよいとの態度なり方針を当初から是認していたからこそ、民主主義の常識では想像もできないような不公正な運動方法を組織的広範囲に計画実行して平気でおられたのである。それなればこそ前記のように、一般選挙と住民投票とは本質的に異なるとか、公明選挙の理念で判断されてはたまらないといつた主張の底に流れている意識をいみじくも表出しているのである。この意識、態度を裏返えせば、住民投票に勝つためには手段を選ばなかつたということになる。

(四) 原告は住民投票を実施するまでの合併問題の経過、事情を執拗に陳弁し、立証しようとするが、このことは本件住民投票が公正に行われたか、どうか、又は、有効、無効を判断するためには殆んど必要のない事柄である。仮に住民投票にいたるまでの経過事情が、原告主張どおりであつたとしても、県当局及び合併促進審議会の努力にも拘らず、また行政指導調整、政治的妥協等の方法をもつてしても解決ができなかつたために遂に最後の手段たる住民投票にもちこまれたのである。而してこのことは、決して原告のいうが如き農村ブロツク一本に固まつていたという事実はなかつた点を最もよく実証しているのである。

もし、原告のいう通りならば、住民投票にもちこまれるような段階にはいたらなかつた筈である。原告は、高野謙治郎及びその一派が一部住民の意思を抑圧、誘惑したからだと弁疏しているが、はたしてそうした事実があつたのならば何故法的に救済措置をとらなかつたのか不可解千万である。原告らは反対派の不法なやりかたから自派の者を守るために、自己防衛、自力救済手段をとつたにすぎないというが、原告自身のことならいざしらず他人の、しかも純粋に個人の自由の問題について、原告らがいかなる権限、根拠によつてそのような行動をとることができるのか、これを干渉、圧迫といわずして何ぞやである。

原告は、この間の事情を、本件住民投票は一般選挙と異り、同志的、血縁的結合関係に基く団体行動だと説明しているが、団体行動であるにせよ、ないにせよ、前掲公明選挙の理念や、憲法、公職選挙法等の規定に違反することは許されないのは自明の理であり、殊に選挙や本件投票のような個人の自由意思の尊重を至上命令とする場においては、集団の威力、団体行動により気勢を張る等の行動は最も慎しむべきであることは前掲公職選挙法等の規定により明白である。

(五) 原告は団体行動である限り集合して団結を再確認して結束を固めたり、必勝祈願をしたり、一堂に会して情報の蒐集、交換をしたり、投票文字の字型をきめたりすることは何ら差支えないと弁疏するに至つては、公明選挙の理念や前掲法令の趣旨を誤解曲解するも甚しいものであり、又いまにおいて尚且つこのような論議を行なうところをみれば、本件投票における幾多不公正な問題の精神的要因が当初からろうことして抜きがたいものであることを裏づけている。更に極言すれば、原告の右の主張は、被告が裁決において認定した全事実を自白したものということができる。

又原告は一般選挙における全町一致推薦の事例を引いているが、推薦には厳格な規制があり、且つ推薦と投票とはそれこそ本質を異にする問題であるから、原告のこの点に関する主張はこじつけも甚しい。

(六) 原告はいわゆる賛成派の運動母胎であり、組織源である実行委員、推進委員を、それが小岐須区の総会において正式の決議により決定されたのだから区の機関だと主張するようであるが、そのいうところの区総会の決議及び委員の人選は、賛成派のボスとみられる数名のものによつて選任又は牛耳られていたこと、少くとも極めて非民主的なやりかたであつた。殊に純粋に個人の自由意思によつて決めるべき賛否の問題を人格の認められない区総会の決議などで決めるというのが、そもそもまちがいの最大原因である。

ここにも原告及びその属する賛成派幹部、同志なるものの過誤を端的に露呈しているのである。

二、同再答弁二の主張に対して

原告は、被告がなした本件訴願審理は、行政訴訟、民事訴訟の審理の規定が準用されているというが、これは全く謬論であることは訴願法と行政事件訴訟特例法、民事訴訟法を比較対照するまでもなく、行政庁における自己審査の性質を有する訴願と、司法審査の性質を考えれば直ちにわかることである。殊に訴願法第十三条において「訴願ハ口頭審問ヲ為サス其文書ニ就キ之ヲ裁決ス、但行政庁ニ於テ必要ナリト認ムルトキハ口頭審問ヲ為スコトヲ得」と規定されているとおり、書面審査が原則であつて、口頭審問はむしろ例外に属する。又訴願に対する裁決は訴願提起後三ケ月以内にこれをしなければならない(行政事件訴訟特例法第二条)等の点から考えて、訴願審理にはその目的、性質等から自からなる限界があり壁が存するわけである。また訴願審理の経過を明かにするために訴訟における期日等の調書の如きものは要求されておらない。訴願法第十四条に「訴願ノ裁決ハ文書ヲ以テ之ヲ為シ其理由ヲ附スヘシ、訴願ヲ却下スルトキ亦同シ」と規定せられるのみである。被告委員会がなした訴願審理並に裁決はその形式においても何ら違法、不当でなきことは勿論実体的真実を発見するために口頭審問をなし関係官庁の文書を閲覧したり(当時既に、津地方法務局において人権侵害事件として調査し、記録が作成されていた)、全投票を開披、検証したり、事件に直接関係のある者から事実証明書を徴したりして、被告委員会の機構、予算、能力において能う限りの努力を傾けて慎重審理をなしたのである。

三、同再答弁三の主張に対して

(一) 原告は、本件投票を無効ならしめる原因たる諸事実のうち特に原告側が刑事上起訴せられたり、有罪判決をうけたことがないのに、被告がこれを認定したのはけしからんというようであるが、刑事処分と投票無効処分とはその目的においても、はた又その対象、効果においても性質上異るものであることは多言を要しないところである。

したがつて刑事処分においては捜査の初期における管轄警察署の方針が爾後の捜査のありかたを決定するのみならず検察官の起訴、不起訴処分の決定をも左右するほどの影響力を有することは想像に難くない。本件訴訟審理の結果判明した事実だけでも地元警察署が起訴相当の意見を附して検察庁に送付すれば、検察官が起訴するに充分な構成要件、証拠を具備しているとみるのは決して被告委員会だけではないだろう。

尚、刑事事件として本件を問題にする場合、先ず新市町村建設促進法違反事件という全国に稀れなケースであり、事件の内容が強制、強要、不法監禁、家宅侵入、饗応、利害誘導、投票の秘密侵害等複雑多岐にわたる上、その殆どは共犯関係(主犯、従犯、教唆、間接正犯、共謀共犯、実行正犯等の関係)であり、且つ共犯者間、加害者、被害者間における親族関係等が錯綜しているので公判審理における煩瑣な手数や労力等も顧慮した上で、最も単純な現金授受による買収事案のみに起訴の対象を限定してその他の事案はすべて不起訴にしたことは容易に想像できるところである。ただ不起訴の理由も犯罪の嫌疑なしとした事案もあるようであるが、一件記録を精査すれば嫌疑なしとはとてもいえない筈である。

警察署、検察庁が真に公明選挙実現のために前掲公職選挙法(但し準用される部分)を忠実に適用しようとするならばできえた事案である。

(二) 原告は、投票所内外にポスターむしろ旗を貼つたり、建てたりすることは、一般選挙の場合の候補者の氏名を貼出すのと同じではないかというが、ここまでいわれれば、もはや何をかいわんやである。氏名掲示と、本件ポスター、むしろ旗とは、その掲示目的も規制の効果も全然異るものであることは常識で理解できることであり、原告の右のような見解は、即つて原告及びその一派のものが初めから無法状態における投票運動を意識的に狙つていたものと推断せざるを得ないことになる。

四、同再答弁四の主張に対して

原告は永井甫に対する検事の取調の状況及びその結果につき云々するが、永井甫に限らず、賛成派の幹部又は有志なるものの供述は、この種事犯関係者にあり勝ちな確信犯の典型的なものか、然らずんば自派に不利なことをいえばたとえそれが真実供述義務があつても背後の集団又はこれを牛耳るボスの報復(本件では直ちに生活及び財産に対する不快、不利益としてはね返つてくることは証拠の示すところである、)を恐れて真実を述べまいとする信念をもつていることは本件証人尋問における態度及び供述内容の矛盾、撞着、津地方法務局人権侵害事件における供述津地方検察庁から取寄せた供述調書の内容とを比較対照するとき容易に認められるところであつて、殊に注目すべきは、本件証人尋問において否認又は不知としていた事実が、捜査記録(供述調書)又は法務局の記録では夙に認めている事実が多数あらわれてきていることである。これは偽証工作を共謀、実行した疑いが充分もたれる。

五、同再答弁五の主張に対して、

原告は被告委員会の投票無効裁決により現在迄再び不安の年月を送つていると歎いているが、これは訴状及び原告側申請証人多数の供述とは全く矛盾していることになる。何故ならば原告の主張、弁疏によれば、原告等の賛成派の数は常に反対派を圧し、その比率は反対派数名に対し、賛成派はその数十倍乃至百倍にも及ぶ三百数十名であることが窺われるのである。はたしてその通りとすると、被告の裁決により本件投票が無効になつても再投票を実施すれば、ぜつたいに原告等賛成派の勝利は火を見るよりも明らかな筈であり、むしろ再投票により、従前の得票数を遙かに上廻る筈であるから、原告等一派の目的、願望を最も確実に実現するためには右の再投票への方向を選ぶべきである、しかるに原告等が、被告の裁決により深刻な不安を抱いていると告白しているところから考えると再投票をしたら、形勢が逆転することを恐れているからにほかならない。

尚、原告等の豪語と、吾人の常識を絶する干渉、圧迫等にも拘らず本件住民投票の結果は、原告等賛成派は僅か十一票の差で辛うじて曲りなりの勝利を得たにすぎない。若し本件のような不法状態がなかりせば結果は正にその逆であり、しかも得票差の開きは更に大幅に引離されていたであろうことは推測に難くはない。

原告は又被告委員会が「片々たる理論により…………本件投票を無効にした」云々と非難するが、原告のいう「片々たる理論」とは公明選挙の理念を指すことはその主張の全趣旨を綜合して明かである。公明選挙の理念に忠実たることを「片々たる理論」としてかたずける原告の態度、心構えは原告主張の随所に顔を出してくる。同様又は類似の内容をもつ見解や論評と相俟つて原告等賛成派の行動には、公明選挙の理念も、公職選挙法の規定も、憲法の精神も全く念頭にも眼中にもなく、住民投票は一般選挙とは本質がちがう、住民投票は勝つために、目的さへ正しいと思えば何をやつてもよいのだ、勝つことだけが目的だという意図、方針のもとに組織的且つ全投票区の殆ど大部分にわたつて全国にもその例をみないような露骨な無法状態ともいうべき住民投票を敢えてした。

而してこのような状態のもとにおける住民投票は憲法又は当該関係法令が期待する住民投票の実質は全く失われ、当然無効であつて唯形骸のみ存するにすぎないものである。

第五、原告等訴訟代理人は被告の再々答弁に対し次の通り述べた。

一、再々答弁一、の(一)に付

原告の云つている所は、所謂選挙と住民投票との法律概念がちがうという丈のことで、公明選挙の理念が住民投票に無縁のものであるとか、公明でなくてもよいというようなことを言つているのではない。

かかる見解は、原告の主張を曲解した不当な言いがかりであり、又投票を中心に、選挙も住民投票も同じであるという誤解にも端を発する見解である。物を正視せずして逆立ちした、正当な立場よりの見解ではない。

二、同一の(三)に付

既に右一に於て明かした如く「………賛成派の幹部が本件住民投票は公明選挙でやらなくてもよいとの態度なり方針なりを当初より是認していた………」との主張も、右の被告の逆立ちの見地よりの誤つた判断にすぎない。曲解であり、いはれない言いがかりである。

三、同一、の(四)について

原告が住民投票を実施するまでの合併問題の経過事情を明かにする所以は、被告が裁決に於て強調している投票の強要強請があつたかどうかに付重大な関係を持ち、又その重大な資料となるからである。

この点に付ても先に明かにしたように本件の合併問題紛糾の源は、この町村合併により、自己の選挙地盤が分裂し自己の当選が期せられない為之を極力回避しようと県当局並地方課に圧力を加へて暗躍した一県会議員の策謀に毒されて、多数住民の農村ブロツクの意向を無視して、当時の村会議長高野謙治郎一派が権力の座にあるのを奇貨として、その手先となり、農村ブロツクに固つていた大多数の住民の意向を無視して鈴鹿市との合併決議に持込んだ為、大多数の住民が怒り、県当局、合併促進審議会の行政指導調整等にも応じなかつたのである。然らばこそ住民投票ということになつたので市部に比し今尚比較的知事、県当局ということの威令が行はれ易い山間の農村に於て、知事勧告も一蹴したという所に本件の根強い真相が窺い知られるのである。

四、同一、の(四)及(五)について

被告は原告が同志的血縁的結合関係に基く団体行動は公明選挙の理念や憲法、公職選挙法等の規定に違反しない差支へないと弁疏していると非難しているが、原告の主張していることは憲法に認められた団結の自由、行動の自由表現の自由のことを根拠にして、政治活動の自由を主張しているので、憲法、公職選挙法の規定に違反しても団体行動である限り差支へないとは言つていない。

被告の主張する公明選挙の理念は公職選挙法に於て最もその効用を発揮するのであるが、公職選挙法自体、政党の存在を認め、政治活動に於ける団体行動を明かに認めているのではないかと言いたい。

自民党大会社会党の大会をどう見たらよいのか、党の決議ということが党員を拘束し、集合して団結を再確認して結束を固めたり、必勝祈願としたり、一堂に会して情報の交換をしたりすることは選挙運動の際、まま見られる所である。

個人の自由意思を尊重するの余り、或党派に主張主義を同じくするの故に属し乍ら反対派に投票した場合革新政党に於ては従来階級の裏切者の汚名の下に除名追放の例も見られた。

被告は之を何と見るだろう。何というだろうか。

かかる所に本件裁決の誤れる禍根が存するのではないかと思はれる。

五、同一、の(六)に付て

この見解も農村の実情を知らぬ謬見である。

山村農村には昔から現在も尚、自治行政区域として区があり、区長、区民があり、区長は区民大会で選ばれていることは公知の事実である。又区の下に組があり、組頭、組員があり組頭は組員より選ばれて、いることも公知の事実である。丁度市に町内会自治会が厳存すると同様である。法人格が認められないからとて恰も之を不法なるかの如き口吻を洩らすことは誠に不可解である。

区の総会で、実行委員推進委員が選ばれているが之こそ正式の決議により選ばれた区の機関である。この委員の選任は区の総会で区民全員がなすもので、「賛成派のボスとみられる数名のものによつて選任………された」ものではない。正式に区の総会を招集し、その席上、出席区民によつて選任されているのである。

区が法人格はないが現実の存在として、財産を有し、時に区の総会の決議により、財産を処分して、区民に分配することも不当だというのであろうか。

六、同二、について

自己の裁決を正当化する為の弁解にすぎない。

その主張の誤つていることは、「………事件に直接関係のある者から事実証明書を徴した」その証明書が証人調の段階で明かになつた如くその大部分が偽造のものであつた一事によつても凡そ本件の訴願の裁決が如何に杜撰に軽卒に、誤つて、なされたかがわかる。

訴願の方式を形式的に遵守しても誤れる裁決は正当化されない。真実は一つであり、誤つた裁決は取消されなければ正しくはならぬ。

七、同三、について

先に明かにした如く、真実を発見する捜査能力、調査能力に於て、三重県刑事課、亀山警察署の警察能力と職員たかだか十名余の被告委員会の比較は言う迄もないが、それが司法審査であると行政審査であろうと真実は一つである以上、双方の結論は同一であるべき筈である。相反する結論が同一事実に下された時、双方が正しいのではなくて、何れが一方が正しく他方が本件の場合検察庁の結論が正しいか、被告の裁決が正しいか、問わずして明かである。

只一点、警察並検察庁の供述調書中に嫌疑なしの裁定の結論に反する供述も散見されるが、右は取調官が供述者の否認にも拘らず取調の行き過ぎと思われる。然らざれば嫌疑なしの裁定とはならぬからである。

取調の峻烈にたえかねて自殺未遂に迄追いやられた永井甫は、この典型的な一例であると見て差支えないと考える。

(証拠)

一、原告等代理人は甲第一ないし第六号証、第七号証の一、二、三、第八号証、第九号証の一、二、三、第一〇号証の一、二、第一一号証の一ないし二三、第一二号証の一ないし三五、第一三号証の一ないし一三、第一四号証の一ないし二八、第一五号証の一ないし二八第一六号証の一、二、三、第一七号証を提出し、証人藤井八郎、水越修(一、二、三回)、小岐須了(一、二回)、水谷惣四郎、小岐須佐内(一ないし四回)、早川源造、伊藤喬(一、二回)、北川とよ子、神野まさ子、徳田清、今村英一、酒井信雄、今村次郎(一、二回)、山田甫、栗本重、酒井よ志、酒井篤美、永井甫(一、二回)の各供述を援用し、乙第四、第五号証、第二〇号証の一ないし一三、第二一号証の一、二、三、第二三号証、第二四号証の一ないし五、第二五号証の一、二、第二六号証の一ないし一八、第二七ないし第三二号証の各成立を認め、第六ないし第一三号証はいづれも本人の意思に基いて作成されたものでないから否認、第三号証の一、二第一四号証の一ないし一一、第一六号証、第一七号証、第一八号証、第二二号証はいづれも知らない、第一号証の一、二、三、はいづれも印影を認め、その他は不知、第一五号証、第一九号証はいづれも新聞であることだけ認める。

証拠抗弁として次の通り述べた。

(1)  乙第一号証の陳情書は自筆にあらざる署名、二重署名、押印の二重等が多く存し又亀山市と鈴鹿市への合併云々とあるが、かかる亀山市への合併等は全く一度も問題となり論議せられたことなく全く不可解千万のものであり、又乙第六号証乃至第十三号証の早川峰子外七名の陳述書の如きも全て同一の用紙を用い、同一人の筆蹟で、右八名の署名も亦同一の筆蹟で多分に偽造の疑いがあり真正に成立したものとは言い難く、又乙第十四号証の写真も賛成派反対派の区別が明かでなく、殊に乙第十四号証の十を以つて集団投票であると主張できない。何となれば、本件住民投票は五月五日施行せられ投票の終了は午后六時であるが、暦上五月五日の午后六時頃は右写真の如き深夜闇黒の夜ではない、建物の上偶に電燈が煌々として輝いていることより判断し得るのである。かかる深夜の投票はあり得ない。如何なる時の写真なりや、思うに開票の結果を見ての帰りの村民を撮影したものと思われるが、果して然らば午后九時過ぎである。之を以つて強要による投票、集団投票の証拠なりと真に信じているとせば、この一事よりしても被告委員会の裁決書の認定が誤りであると論定し得る。

被告は測候所のことを口実に弁疏しているが乙第四号証によれば五月五日の投票速報によれば当日十五時より十八時迄の間投票した者は男三人女二人計五人である。電燈が点じられる前十五時(午后三時)迄にその大半は投票済である。被告の弁解が誤りであることは之により明白である。

(2)  乙第十五号証の新聞記事は当時の村長たりし者の談話で訴願人側の人物であり、信ををき難く、

(3)  乙第十六号のNHK録音はその演出者か県選管の被告自身である点に於て証拠能力はない。

(4)  乙第十七号証乙第十八号証の北川貢、北川利郎の取消文は甲第十号証の二が高野謙治郎の自筆にかかる乙第一八号証の原稿であるので北川利郎が高野謙治郎より原稿を与えられ、おどかされそれをそのまま引写して提出したもので、その原稿は過日の証人と出廷した際、之の甲十号の二を手渡して証人として取調べを受けず無断帰宅したものである。

之と同様のものが北川貢にも交付され、同人は之を引き写して提出したもので、何れも証拠能力はない。

尚原告は椿村以来住民投票に至る迄の村議会議事録を捜し求めたが何れも現在せずと断わられたが、被告は随時之を資料を入手しているようであるが旧椿村、旧三鈴村、関係の書類は既に現在せずとの回答に接するのみである誠に遺憾である。

(5)  乙第二九号証について

被告は共有山林の管理収益配分は住民の経済生活上重大な関係を有するからこの組規定の適用、実施の権限を握つている組役員及びそれに圧力をかけることの出来るであろう区役員は住民にとつて最もこわい存在であるというが、現状は組役員は毎年殆んど輪番制で交替することが普通で形式的に選挙されているにすぎない。

区役員は区長、副区長と会計係の三名で各組から独立して居り組に圧力をかけることは出来ない実状にある。

又共有山林の収益の配分は住民の経済生活に重大な関係を有するというが、この収益は殆んど問題にならず下刈りその他出役の日当程度であり、現に小岐須区の中組は組財産もなく共有山林の配分も皆無で区費等はすべて自弁していることから見ても日常生活には殆んど影響はない。

現在の経済状態から、組の分配金に依存する率は、極めて低率で、その為分家等をしていても組入りせず中組に籍を置くものが多数ある。それは組の出合いや賦役を避ける為で会社等に勤務する者が多く、組入りはしない。

組の規約は各組によつて終戦后変更されている。

(6)  乙第三〇号証について(登里組規約)

昭和二十四年三月九日組員の総意により改正されたものでそれ迄の規定と殆んど同様である。一部その時の申合せにより追加変更されているにすぎない。住民投票をめぐる問題と無関係である。

水谷又市の件は、甲号証の通りで組員早川十二郎方の物品等を盗んだこと其の他の行状と組の付合もせず出合い等にも一切出なかつた為早川の申出により除名したものであるが、その直后区長からの頼みがあり組の集合で除名を取消している、早川進の件は既に解決済である。

(7)  乙第三一号証について

毎年決算がすむと古いものは会計係が保管はせず組の集会所に保管しておくのが実情で、三十二年以前のものは所在がわからないので提出できなかつたのである。

(8)  乙第三二号証について

組員の総意によつて全て支出せられて居り何の疑惑もない。犬山、名古屋旅行も賛成派反対派に拘らず全員参加して居り、組の行事として行つたものである。

二、被告は乙第一号証の一、二、三、第三号証の一、二、第四ないし第一三号証、第一四号証の一ないし一一、第一五ないし第一九号証、第二〇号証の一ないし一三、第二一号証の一、二、三、第二二号証、第二三号証、第二四号証の一ないし五、第二五号証の一、二、第二六号証の一ないし一八、第二七ないし第三二号証を提出し、証人高野丹治(一、二、三回)、高野謙治郎(一、二、三回)、酒井篤美、酒井よ志、早川進、早川峰子(一、二回)、田中あきを、北川とよ子、伊藤喬(一、二回)、桑山二見子、栗本重の各供述及び検証の結果を援用し、甲第一、第五、第八号証、第九号証の二、三、第一〇号証の一、二、第一六号証の一、二、三、第一七号証はいづれも知らない、第九号証の一は内容証明郵便であることを認め、その他の甲号各証の各成立を認め、原告の証拠抗弁に対し次の通り述べた。

被告提出の書証の一部に対する抗弁は全くいわれなき抗弁、非難のための非難というのみで尽きる。右非難の対象となつた文書又は写真はそれ自体の証拠力だけではなく、これを裏づける幾多の人証の存在することは記録に徴し明白である。

尚原告の非難は乙号証の一部に止まるところからみれば爾余の被告提出、援用の証拠に対しては異議なきことに帰するわけである。

又旧椿村以来の村議会議事録の入手ができなかつたとか、被告だけがこれを利用しているとかいうことはまことに迷惑ないいがかりであつて、右のような公文書が保管されておらない筈はなく、住民投票までのいきさつは被告提出の書証(公文書)によつて充分明かにされているのであるから、これ以上附加える必要はない。

原告は乙第十四号証の十をもつて夜間撮影の写真なりとするが、津地方気象台の調査によれば昭和三十二年五月五日は午前七時から午前十二時までは雨で、ひどく降つた場合は一時間二耗一も降つているものであり、正午から午後一時頃までは少しく日を見るときもあつたが、午後二時四十八分から午後四時二十分までは更に小雨が降り午後四時五十分から午後九時十分までは雨が降つておりその他の時間は概ね曇であつたということよりも明かな如く雨のため投票所が暗く、従つて投票管理者がその管理権にもとずいて特に投票記載台附近その他の電燈についてこれを点燈したものであつて、原告が主張するが如き夜間撮影ではなく又この点は写真中の鈴鹿市選挙管理委員会書記の投票事務に従事していることよりしても明白である。

理由

一、原告等は三重県鈴鹿郡鈴峰村の住民で、同今村弥六は同村大字小岐須区の区長、同神野亨は右小岐須区内登里組組頭、同柴田弥七は同小岐須区内南条組組頭であること、鈴峰村大字小岐須区は元鈴鹿郡椿村大字小岐須で、同椿村は昭和三一年九月三〇日市村町合併促進法(昭和二八年九月一日法律第二五八号)の定むるところにより同郡久間田村と合併して新たに三鈴村となり、同三鈴村は昭和三二年三月一四日三重県鈴鹿市と合併したが、旧椿村住民の間に右三鈴村えの合併続いて鈴鹿市えの合併に非常な反対があり、特に旧椿村大字山本、大字小岐須、大字小社の三地区について、前記鈴鹿市えの合併後、県新市町建設促進審議会における町村合併調整委員の調定により、昭和三二年五月五日右三地区における住民投票が執行され、小岐須地区においては、投票の結果、有権者総数三七八人、投票総数三七二票、内賛成二五八票、反対一一三票となり法定比率により計算して反対派は一一票の差で敗れ、右小岐須地区が鈴鹿市より離れ鈴峰村に編入せられることになつたこと、高野謙治郎は昭和三二年五月一〇日鈴鹿市選挙管理委員会に対し右境界変更に関する投票の効力に関し異議の申立をなし、同年五月三一日棄却せられ、同年六月被告に対し訴願を提起し、被告は鈴鹿市選挙管理委員会の決定を取消し右投票を無効とする裁決をしたことは、いずれも当事者間に争いがない。

二、原告等は次の事実を自ら認める。

(1)  登里組(戸数二五戸、有権者総数七三人((ただし被告は七五人と主張する))投票人七二名、当時の組長神野亨)は昭和三二年五月二日夜組集会所において組の集会を開き、組員の同志的結合を一層緊密にする為自発的に「五月五日の住民投票に際して全員左の事項を決議す。

一、鈴鹿市側よりの金銭物品を受取つた場合、

一、尚其上鈴鹿市への合併に投票した場合、

今後組の分配金を一切せず

五月二日夜決定す 登里組」

との申合せの書面を作成し、居合せた永井甫以下二十数名が署名押印したこと。

(2)  本件投票における投票立会人は登里組の小岐須了と下里組の今村純一の両名であつたこと。

(3)  五月四日昼登里組集会所に居合せた老人婦人等の間において席上住民投票にはどんな字を書いても有効かとの話題が持上がり、仮令片仮名平仮名が混つても「サんせい」と読めればどんな字体でも有効であるとの説明がなされたことがあり、当時其の場に居合せた組員の永井甫が傍の電柱に貼布してあつた「サんせい」なる字体のビラを剥がし一同にその例として見せ、こうした混合のものでもよいと説明したことがあり、登里組員の内五月五日の住民投票に投票した有権者総数は七三人であつて、右「サんせい」字型の投票数が三九票あつたこと。

(4)  南条組(戸数二二戸有権者総数六五人((ただし被告は六四人と主張する))、投票人六四名、当時の組長柴田弥七)は昭和三二年二月一六日「御掟」を作成したこと。

(5)  南条組組員の一部が五月四日に投票日を明日に控えて情勢の問合せ、情報の交換等のため、南条組集会所に集合し、その外同組員北川とよ子が予て鈴鹿市派と見られている所から、一般組員の手前をつくろう為集会所に宿泊したこと。

(6)  小岐須区住民中、山中宗一、山田とき、黒田長治、小林和己等を反対派の暴力より護る為宿泊せしめ、又反対派の買収、脅迫、懇願その他あらゆる投票依頼を避けて組員が自家米を持寄り自ら炊事して食事をとつたこと。

(7)  今次の住民投票に際し、鈴鹿市派はこの小岐須、山本、小社の三地区を鈴鹿市に獲得する為、鈴鹿市長、同助役、同市会議員など猛烈な支持応援をなし、小岐須、小社、山本の各部落は同志的団結を固う強くしてこれに対処したことは事実で、むしろ鈴峰派が組織的、集団的圧力により投票の自由、公正、秘密を侵害されたということが出来る程であること。

(8)  鈴鹿市選挙管理委員会は、今回の住民投票に於て付添人に代理投票を示すことなくその儘投函するので、賛成派より従来の椿村の例にならい付添人にこれを示して確認の後投函せられたい旨申入れ、反対派はこの申出に対し猛烈に反対し、賛成派反対派が互にその主張を大声にて言い合つたこと。

(9)  反対派の高野忠一、高野丹治が買収事犯により津地方裁判所で罰金三千円に処する判決言渡を受けたこと。

三、証人小岐須了の昭和三五年五月一三日及び七月一四日の供述を綜合すると、小岐須了は昭和三二年五月三日に前日の夜の登里組の集会(前記二の(1) 参照)の模様を組頭である原告神野から聞き鈴鹿市の方から金とか物をもらつて反対投票をした者には分配金を与えない旨の取り決めたことを知り、その取り決めの書面に署名拇印したこと及び小岐須了は本件投票の投票ばかりでなく、開票の立会人でもあつたことが認められる。

四、成立に争のない甲第六号証の記載によると、前記二の(4) の南条組の「掟」は「組の明朗団結発展幸福を期する為事の事態を問はず慎重審議決議の上は以上の主旨に従い違反すべからず。違反した場合には組員協議の上、陳謝、懲戒、罰金、除名を適用する。」旨の内容であることが認められる。

五、検証の結果によると、本件投票中一票は無効であつて、本件有効投票の字型及び数は次の通りであることが認められる。(但しサんせいなる字型が三九票あつたことは、前記の通り原告等の自認するところである。)。

賛成票一覧表<省略>

右検証の結果の中に赤鉛筆書の投票一票のあることは、成立に争のない乙第二六号証の一四の記載によると、投票人の中に投票に際して赤鉛筆で書けと云われた者があることが認められる。

右の事実に成立に争のない甲第一一号証の一〇、第一二号証の九、一二、一五、三〇、三二、三四、乙第二六号証の三、六、七、一〇、一四の各記載証人伊藤喬(昭和三四年四月二二日及び同年七月六日の供述)、葉山二見子、早川峰子、早川進の各供述を綜合すると、本件投票について投票の秘密が守られなかつたと疑はれるに十分である。

以上の認定事実に反する甲第一一号証の四、七、九、一一、一二、一五、二〇、二一、二二、甲第一二号証の四、一六、一九、二〇、二一、二四、三一、甲第一五号証の二七の各記載、証人小岐須了、水谷惣四郎、徳田清、小岐須佐内、早川源造、北川とよ子、神野まさ子、永井甫、水越修、酒井よ志、酒井篤美、田中あきをの各供述部分は前記採用せる証拠に対比して採用できない。

新市町村建設促進法第二七条第一一項は市町村の境界変更に関する投票について公職選挙法中普通地方公共団体の議会の議員の選挙に関する規定(新市町村建設促進法施行令第一五条により除外されたものを除く)を準用し、公職選挙法第二〇五条第一項、第一条、第七条、第五二条などの規定により投票の自由公正を確保し、自由公正な投票を期待するために投票の秘密を保持している。前記認定の二ないし五の事実は、少くとも本件投票の秘密が侵害され投票の自由と公正を疑わしめるに十分である。そして、前記一記載の通り本件投票に関する有権者総数三七八人、投票総数三七二票、内賛成二五八票、反対一一三票で反対派は法定比率により一一票の差で敗れたことは当時者間に争なく、前記二(1) 記載の通り登里組は戸数二五戸、有権者総数七三人、(ただし被告は七五人と主張する)、投票人七二名、前記二(4) 記載の通り南条組は戸数二二戸、有権者総数六五人(ただし被告は六四人と主張する)、投票人六四名であることは原告等の自認するところであるから当事者間争のないサんせい字型の投票数三九票、赤鉛筆で書いた一票計四〇票だけでも投票の結果に異動を及ぼす可能性があること明かである。原告等は特殊字型の指定による投票強要は何人に対し何処で行われたか裁決では明確でなく、本件住民投票の無効を宣しているのは根拠薄弱である旨主張するが、その見解に従うと前記認定事実が行われたときでも、これに関与した当事者について証拠調をし強要事実の発覚しない限り、投票の効力は保持されることとなる。強要事実に関与した者を取調べても、それらの者が口裏を合せると、現実に強要事実が行われた場合でも、強要事実は表面に現われなく投票は有効と認められる不都合な結果を生じ、投票の自由公正は著しく疑惑を増すことになる。従つて原告等の見解に賛成することができない。原告等代理人はその外裁決を攻撃し、本件投票の有効なることに数万言を費し、一件刑事記録全部を始め、多くの証拠を提出するが、前記採用せる証拠並に前記認定事実に照らし、原告等の本件投票を有効とする証拠は採用できなく、原告等の主張を認容できない。

以上説示のとおり、本件投票は投票に関する規定に反し投票の秘密の保障について多大の疑惑をいだかせ、投票の自由と公正とを阻害し、投票の結果に異動を及ぼす虞がある場合に該当するものと認められるから、本件投票を無効とした被告の裁決は結局正当であつて、これの取消を求める原告等の本訴請求は失当であるから、これを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長判事 県宏 判事 越川純吉 判事 奥村義雄)

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